先生が「死ね」と言ったら死ぬのか?

前回のつづき》さて、「食べログ」に“やらせ”投稿をする業者がいたという問題の続きです。前回は、インターネットは“世間”であるゆえに、お店は情報管理ではなく、内部固めにコストをかけて、クチコミに強い店作りを、といったお話をしました。

 翻って、今回は“世間”のほうのお話です。昨今の世間は“甘い”“ちょろい”面があって、そこに“やらせ”業者が活躍できる隙があったように感じます。

「食べログ」は私も利用するのですが、私はランキングよりも、それぞれのお店にどんなことが書き込まれているかに(ちょっと意地悪な)関心があります。そして、ときどきおかしな書き込みを見つけて、クスリと笑うのです。どうおかしいかと言えば、「行ってないのに書いている」ということがあからさまにわかるのです。店をほめてはいるけれども、びっくりするほど具体性がない。おかしなたとえですが、「犯人でなければ知り得ない事実」が見当たらない。それなのに一生懸命にベタボメにしているので、読んでいて気の毒になるほどおかしくなってしまう。

 しかし、こうした“イタイ書き込み”がときどき見つかるのは、「食べログ」にせよ「amazon」にせよ、クチコミがあるサイトの“仕様”だと思っていましたから、今回の「食べログ」のことがこれほど騒がれるニュースになったのは意外でした(雑誌編集部にいたら、今ごろデスクから“ネタを逃したバカモノ”扱いで罵られていたでしょう)。

 世間はそんなにも、クチコミを鵜呑みにする世間なのでしょうか。また、クチコミ・サイト運営者は、消費者の判断を誤らせるクチコミを排除する“責任”があるのでしょうか。もちろん、サイトや運営会社の信頼性を高めるためには、でたらめを排除していくべきですが、それは“責任”ではなく、向上、改善の“努力”でしょう。

「食べログ」のクチコミ欄には、「この口コミは、○○○○さんの主観的なご意見・ご感想であり、お店の価値を客観的に評価するものではありません。あくまでも一つの参考としてご活用ください」と書いてあるとおり、ひとの話というのは、自分の身体全部をあずけるに値するものではありません。世の中に鵜呑みにしてよい情報などないのです。たとえ親が言おうと、教師が言おうと、親友が言おうと、嘘や誤りは常にあり得ます(FoodWatchJapanも、よくよく注意しながら読んでください)。

 子供のころ、こんなへらず口の応酬に巻き込まれたことはありませんか。

A君 「だって先生がそうしろって言ってたもん」
B君 「お前、先生が『死ね』と言ったら死ぬのか?」

 このB君というのは、まあ嫌なことを言うヤツですが、どういう場面での話かを抜きに考えれば、彼は一つの真実を突いています。誰かが言うからどうするこうするではなく、「お前自身の判断はどこへ行ったのだ?」と言っているのです。

「自己責任」という言葉が日本で多用されるようになったのは、イラクでの人質事件からと記憶しますが、あの事件の不幸な顛末から、日本語の「自己責任」には突き放した冷淡な響きがあります。でも、そのイメージも疑ってみませんか。

 私がこれに当たる言葉を最初に耳にしたのは、あれより数年ほど前でした。友人たちと難しくないハイキングに出かけたとき、その日のガイド役を買ってくれた人が「at one’s own risk と言いまして、事故やケガをしないよう自分で気をつけてくださいね。ガイドの私は責任を負えませんからね」と言われたのでした。それは、子供のときに野原や川で遊んでいたころから当たり前のことです。その当たり前のことに、なにか専門的な横文字の言葉があることに、私はちょっとわくわくしたものです。

 よいお店、自分に合ったお店を見つける冒険も、本来は“at one’s own risk”で楽しむべきものでしょう。ガイドはガイド。歩き、食べるのは自分自身です。しくじれば、「次は失敗しないぞ」と経験を積むことになる。

 すべての人を対象に、すべての人から好かれようとする店、誰が訪店しても失敗のない no risk の店というのは、日本では70年代のチェーン・レストランの発明でした。誰でも似たような夢を持っていたあの時代は、そういう店が喜ばれたのでしょう。

 ところが、その結果現れた今日の消費者は、店を育てる力を持ってくれているでしょうか。店を疑うこと、広告を疑うこと、クチコミを疑うことがない。もたらされる情報は真実だと鵜呑みにする。ガラパゴス諸島の動物たち、鳥島のアホウドリのように、自分を不幸にするものはこの世にないという前提で行動している。しかし、誰に対してもいい顔ができる店でないとわかるや、手が付けられないほど怒り出す――もしも本当にそういう人ばかりだとしたら、つまるところ、すべてのお店は同じものになって行かざるを得ないでしょう。

 しかし、レストランは、役所や鉄道の駅とは違うのです。

 誰もが利用する店に行って、食べる前からわかりきっている料理を食べて――そんなことを繰り返しているだけでは女の子はくどけないヨというのが、これは男性の場合のお話ですが、少なくとも私の友人たちの間では常識でしたし、もっと多くの人がそう考えていたでしょう。だから、人の知らないすごい店をこっそり見つけてやれと勇み、背伸びもすれば、失敗もしたものです。でも、そういうのが楽しい経験なのだと思います。

 商業は、お客のそんな冒険に半歩ひきながら付き合う仕事だととらえ直してはいかがでしょうか。

 まず、お客を選ばせてもらうことから始めましょう。それぞれに個性のある経営者やスタッフたちが、「このお客様にはウチの店に来てほしい」という営業をすればこそ、お客のほうでもその店を選ぶ/選ばないを考えるはずです。あるお客に好かれなければ、それはお店の失敗でもあるでしょうが、お客の失敗でもある。お互いに、あとで密かに自分自身を悔しがればいいのです。

 そうして生物多様性ならぬ商業多様性、お客様多様性を取り戻すことが、外食産業という業界の疲弊を回復させる力になっていくはずです。

「食べログ」の改善も、クチコミの場を悪用する行為を排除する努力はするにしても、いろいろな嗜好、いろいろな考えをうまく引き出し(そのためにはランキングの取り方や見せ方にも工夫が必要でしょう)、楽しく価値のある失敗のチャンスを削ってしまうことがないようにお願いしたいものです。

※このコラムはメールマガジンで公開したものです。

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About 齋藤訓之 398 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所特任研究員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。日本フードサービス学会、日本マーケティング学会会員。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →