市民農園で農薬を使うのをあきらめた日

数年前、市民農園を借りて畑仕事のまねごとをしていた。市民農園には市が委託している指導員という人がいる。いろいろと栽培の相談に乗ってくれるが、実際にはお目付役だ。他の地域のいろいろな人に聞いてみると、行政が提供する貸し農園では、指導員と利用者の間の緊張関係や対立の類というのは、往々にして発生するものらしい。ご多分に漏れず、私の場合もそこの指導員のAさんと、最初いろいろなことがあった。もめごとと言うほどのことはないが、多少のわだかまりから私の園芸遊びは始まった。

 市民農園を借りたきっかけの一つは、取材する農家から教わった耕し方や管理の方法、分けてもらった資材などを試してみたいということだった。試してみて、そのこと自体を人に伝える気はなかったけれど、そうした体験があれば、農家の話ももう少し理解しやすくなったり、少しは気の利いた質問ができるだろうと考えたのだ。

 ところが、その企ての一つひとつにAさんからストップがかかった。まず耕し方。私は小さな畑をいくつかの部分に分けて、それぞれに耕し方の深さや土の扱い方を変えようとしていた。それで作業を始めると、Aさんが飛んできて「だめだよ」と一言。

 そして、「ここはね、前の人がトマトをやっていたから、消毒したほうがいい」と言いながら、倉庫から何か袋を持ってきて、いやもおうもなく中のものをまき始めた。私が「それ、なんですか?」と聞いてみると、あっさりと「うん。土壌消毒剤」と答えながら、手際よくまいていく。まだ背丈が大人の腰ほどの2歳か3歳の子供を連れて来ていたので、あわてて抱き上げて遠くに離した。

 土壌消毒が嫌なわけではなかったが、農家から譲ってもらった資材の一つは微生物資材で、それを入れるタイミングがその日ではなくなってしまった。来週には播種を済ませるべきだと考えると、どうも今回はこの資材を試すことはできなくなったらしいと分かってがっかりした。

 それにしてもこのAさんは手際がいい。薬剤をまき終わると、あっと言う間に鍬で全面を耕してくれて、その後をほれぼれするほど真っ平らに整地してしまった。「シュンギクとチンゲンサイとコマツナでしょ。この辺はね、畝は立てない」など説明しながら、「じゃあマルチを張ろう。フィルムを分けてあげるから」ということになって、いつの間にか私の方が手伝う役に回っていた。これまたすいすいと張り終わった。

 またAさんはとにかくきれい好きだ。畑から出た残さや雑草などを丁寧に集めてはゴミ袋に入れて持ち帰る。一度、そういうものをこっそり自分の畑の隅のほうに埋めているのを見つかって、きつくとがめられた。収穫後に作物の茎葉をすき込むなどはもっての外。すべて持ち帰って、ゴミの日に出すべしとのこと。肥料はホームセンターで売っている堆肥、鶏糞、配合肥料など、銘柄を紙に書き出して、それを施すようにという。

 そうして何から何までお膳立てしてくれて、しかもそれ以外のことはさせてもらえないようなことになったので、私が市民農園を借りたきっかけとなった希望のすべては潰えた。ふと、お好み焼き店を思い出す。お客がまごまごしていると店の人が飛んできて、上手に焼いてしまう。おいしいけれど、自分で焼いてうまく行ったり失敗してみたりという自由はお預けだ。

 まあ、そんなものかと思いながら、小言を言われるのが嫌で、しばらくは夜明け前から農園に入って作業をして、叱られるような粗相がないよう、すべて言われた通りにやって、周りのどの畑よりもきれいに片付けて、Aさんがやって来る前に、悪いことをして逃げるかのように帰るということを続けていた。

 Aさんは失礼ながら、言葉が少々きつい。そして細かい。さらに杓子定規だ。それに合わせていると、休日なのに会社にいるように疲れた。ところが妻の観察によれば、それらの点でAさんと私は似た者同士ということらしい。磁石のN極同士で近づけば、小者の私の方が尻込みして離れるというのも道理だろう。

 ところが、人との出会いやお付き合いは面白い。私がそうしていた結果、作物は(私にしてはということだが)実によく育ち、形よく、おいしいものを収穫することができた。Aさんの畑のほうはさらに比べるべくもないほどよく仕上がっていたけれど、そのAさんが私のところの仕上がりを見て、小言を言わなかった。小言があるのが基本なので、これは大きな進歩だ。むしろ、Aさんが私に話しかけるときの声の感じが変わった。優しいのだ。

 こうなるとうれしくなるのが人情。こちらも、積極的にAさんの言うことを聞きたくなる。Aさんには失礼ながら、似た者同士ならなおのこと、共感すると結束がかたくなる。

 ぐっと親しくなったAさんと話をしていると、Aさんはもともとは会社員で、リタイヤ後にシルバー人材センターの仕事としてここの指導員の仕事をしているのだと分かった。もともと農業には全く縁がなかったけれど、この役割のために地元の農家のところへ足繁く通って細々と教わり、一から仕入れた情報で自分で栽培してみて、人にも教えているのだという。その熱心さと、我流でできることではないということを身にしみて知っているからこそ、指導も厳しくなるに違いないと理解した。

 その後、次はキャベツとブロッコリーをやりたいと相談に行くと、畝間と株間を言ってくれて、苗はどの店で売っているものの品質がよいなども教えてくれた。Aさんお手製の苗も少し分けてくれるという。

「でもね」と腕を組む。「このへんはヨトウムシがひどいから、定植した後、殺虫剤をかけた方がいい。成長点を喰われたら、それでおしまいだからね」という。それで薬剤の話を聞くと、薬剤以外に家庭菜園用の動噴なども揃えるのでけっこうお金がかかると分かった。さらに、どの薬とどの薬が必要で、それに展着剤を混ぜて、配合はしかじかでなど聞くに及んで、尻込みしてしまった。手間がかかりそうなのと、私はそそっかしいので調合を間違えないかと心配になったのだ。

 Aさんはそこまで説明して、私の表情からそのあたりを読み取って、「貸してあげよう」と言ってくれた。それでご自宅までうかがってみて驚いた。農薬から各種の資材から、またさまざまな機材から、実にたくさん揃えている。男の場合(と一般化していいと思うが)、こういう凝り性の人に出会うとすぐに感心、感動し、憧れと尊敬の念を抱いてしまう。うなりながらしげしげ見ていると、じゃあ薬も分けてあげよう、だったら混ぜてあげようと、結局なにからなにまでお世話になることになってしまった。

 市民農園の利用者には“有機栽培派”の人もいたけれど、たいていの場合、その人たちの区画は雑草と作物が渾然一体となって、虫と鳥が憩う小さなジャングルを形づくり、食べられるものはあまり取れていないようだった。私のところは、Aさんの指導と薬剤を分けてもらったおかげでその期もうまく行き、食べ物と話の種を得た。

 ところがその後、しばらくAさんと農園で会わない月が続いた。お互いの時間がずれているだけだろうと思っていたが、それから数カ月後に再会したとき、事情を知った。病気をして手術をし、ずっと入院していたのだという。復帰後は以前と変わらずお元気そうなので安心したけれど、一つ大きな変化があった。

 Aさんが農園の利用者に有機栽培を説いているのだ。農薬や化学肥料は使うのも食べるのも体に悪い、環境にも悪いなどと説明している。

 恐らくは、大病をしたのをきっかに、いろいろ考えるところがあったのだろう。ご家族からも、健康問題にからめて「農薬を使うのはやめたら?」という話をされたかもしれない。Aさんが利用者に説明している話には、農薬や化学肥料に対する誤解や、おかしな宣伝、誤った報道などを根拠としたものも含まれていたのだけれど、私には「Aさん、それ間違いですよ」とは言えなかった。病気は相当に重いものだったらしい。退院後に、自分や家族の健康を思う気持ちから有機栽培を頼みの綱としたのなら、それに水を差して心を乱す気にはなれなかった。

 また、よく聞いてみると、Aさんが教えを乞うていた地元の農家が最近有機栽培に切り替えたらしく、その人から新しい技術的な指導を受けているという。こちらのほうは、有機JAS以降の出来事なので、市場環境から選んだものではないかと想像している。

 市民農園という小さな世界のこととは言え、世の中というものは、ひっくり返ることがあるものだと感心する出来事だった。

 しかし、感心するのはその後だ。農薬と化学肥料を使うのをやめたと言うAさんの畑。それ以降もますます端正に管理し、生き生きとしておいしそうな作物を、変わらず上手に作っていた。

 どうも栽培というものは、技術体系によって左右される部分よりも、その人の考え方や、人となりと身に付いた習慣や癖によって左右される部分が多いのではないか。何か本質をつかんでいる人は、道具が変わっても結果を変えることはないのではないか。――そんなことを感じながら、とりあえず動噴を自前で買うことと、今度はそれを使っていることをAさんにとがめられはしないか、それが心配になった日だった。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

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About 齋藤訓之 398 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所特任研究員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。日本フードサービス学会、日本マーケティング学会会員。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →