ワインに傾注した経緯――高利益率と差別化を狙う

東京のマーシャリング・ヤード
東京のマーシャリング・ヤード。膨大な数のコンテナが並ぶが、そのサイズ・機能・性能はさまざまだ
東京のマーシャリング・ヤード
東京のマーシャリング・ヤード。膨大な数のコンテナが並ぶが、そのサイズ・機能・性能はさまざまだ

ワインのリーファー輸送を業界に提案した大久保順朗氏が、リーファー輸送が必要と考えるに至ったワイン物流の問題の本質を語る。今回は、氏が酒販店を営む中でもとくにワインに傾注したきっかけと、その当時感じ、疑問に思った「輸入ワインのまずさ」についての回想をお送りする。

死なないために選んだワインの道

“話せば長い話”というやつになってしまうのだが、しばらくご辛抱いただきたい。ワインとの付き合いについて、私としては単に眼前の問題解決に努力しただけだったのだが、途方もなく長い旅路を歩くような展開となってしまった。その経緯をお話しておきたい。

 1968年、大学受験に失敗して予備校に通っていた夏、予備校の検診で肺のレントゲンに真っ白な影が発見され、病院での精密検査を言い渡された。病院での検査結果を聞きに行く日の朝、洗面台の前に立ったとき“ゴホッ”ときた。口の中に大量の生暖かいものが溢れてきた。「しょっぱい!」と思って吐き捨てると、洗面台が真っ赤に染まった。肺には大きな空洞が空いていて、即刻「隔離入院」となった。幸いにも驚異的(?)回復力で鶏卵大の空洞は3カ月で消滅し、1年半で退院。以後は自宅療養となった。

 結核を患った者が家業の酒屋を継ぐことを決めた時、少しでも肉体労働を軽減できる経営をしたいと考えた。当時はビール全盛期の時代で、一般家庭への配達も2ケース、3ケース単位が当たり前だった。だからお客様からは「酒屋さん」とは呼ばれず、子供たちにまで「ビール屋さん」と呼ばれていた。

 重労働稼業である。病み上がりの身としては、「『ビール屋』になったら再発して死ぬな」と思った。男の兄弟はいない。だから私が死なずに酒屋を継いでいける方策を探すしかなかった。

 さらには、通常の酒屋はタバコ販売の免許も保有しているのだが、わが店は故あってタバコ販売免許を有していなかったのである。酒屋の経営にとって、タバコ販売免許とは最低所得保証にも等しいオマケ免許なのだが、それがない。

 健康上のハンデに加え、最低所得保証なしのレースを戦うには、高利益率と差別化商品の開拓に活路を求める以外に道はない。私がワインに傾注して行った動機はここにあった。

 しかし、お客様も取引先業界人も、私のワイン狂いは「苦労知らずボンボンのなせる趣味的所業」と思っていた方が大半であった。実情は違っていた。わが家は土地っ子の家系ではあるが、祖父の代から農業を離れ、家族に病人が多発し(私が最後の一人でありたいのだが)、蓄財などできなかった家系らしい。私としては再発して死にたくはないための選択だった。決して「お道楽」ではなかったのである。

 とは言え、高利益率と差別化商品の模索開始当初からワインに傾注していたわけではない。はじめは輸入洋酒全般の勉強を開始した。まだ稚拙で種類も少なかった洋酒の参考書籍を読みあさり、そうした本に紹介されているショット・バーを探し出し、小遣いの許す限りシングル・ショットで種類を飲みまくった。バーテンダーには露骨に嫌な顔をされることもあった。無理もない、一杯づつで種類を変えるのだから、彼等のグラス洗いを考えれば当然のことだ。まして裕次郎の歌にもあるようにダブルでのオーダーが粋とされている時代のことである。それでも、六本木「もぐらのサルーテ」のバーテンダーは優しかった。シングル&ストレート専門の注文客にテイスティング・グラスを使わせてくれた時のことは忘れられない記憶である。

ワインってこんなにまずいものなのか?

 そうして実際に飲んでセレクトしたスコッチやコニャックは売れた。ところが、苦労して探し当てた商品は1~2カ月のうちに近所の同業者の店先に並んでしまう。問屋の営業マンたちは、私が探して取り寄せてもらった商品が好調に動き出すと、他店に教えて自分の営業成績を上げる一助にしてしまうのだ。こちらは経費をかけて努力をしているのだ。たまったものではない。「猿まねのできるものはダメだ。すぐに追いつかれるものは止めだ」と確信した。

「他店が簡単にはまねできないもの」の答えは、父が作っていた地下倉庫にあった。「難しそうなワインだ! ワインを勉強しても、地下室のない酒屋にはまねのできない店をつくろう」との結論が出た。

 だが、まずは難物ワインのお勉強である。「ワインで経営改善できなければ廃業に追い込まれる」という脅迫観念から、「ワイン取引でだまされることなどは絶対にあってはならない」と肝に命じた。知識とテイスティング能力を身に付けることが、至上命題となったのである。

 1970年代前半のある日。給料を貰って恐る恐る都内のレストランへ行き、ささやかな料理を頼み、ワインはハーフ・サイズながら財布を心配するような不相応な代物を注文した。

 結果――「ワインってこんなにまずいものなのか? それとも俺の味覚が壊れているのか?」と心の中で絶句した。伏し目がちに周りのテーブルを見渡すが、どのお客の顔も無表情にナイフ・フォークを使って料理を口元に運んでいる。「馬鹿な! 腐ったキャベツのような匂いじゃないか!」

 翌月の給料日の後にも別のレストランを訪れ、今度はボルドー・グラン・クリュのレギュラー・サイズを超奮発したのだが、結果はさらに悲惨だった。翌々月も大同小異の結果であった。

 その後の数カ月の給料日後は、日本橋の2つのデパート通い。大枚をはたいて買ったワインを家へ持ち帰り、数日に分けてテイスティングするが、日数経過に伴って腐敗臭は弱まるものの酸敗臭が強くなってしまう。

 両デパートの売り場担当者に恐る恐る疑問と苦言を呈すると、「飲みごろが来ていなかったのではないですか? われわれプロでも飲みごろを的確に捉えるのは至難の技なのですよ」と煙幕を張られてしまった。のちにわかったことは、この言い逃れのせりふはワイン輸入業者営業担当の言い逃れ常套句のコピーだったのである。この言葉に聞き覚えのある方々は皆、腐ったキャベツの匂いに相当の大金を投じた経験の持ち主である。

 その後、両デパートで買い求めたグラン・クリュ・ワインを自店地下倉庫にしまい込み、数カ月後にテイスティングしてみたものの、結果はまたしても大差なしであった。

売れていた国産「大黒生葡萄酒」

 他方、わが店では私が幼い時代から国産ワインはある程度売れていた。隣町に米空軍極東司令部という基地があり、私の父親はそこの将校たちの依頼で、甘くない「生葡萄酒」と呼ばれるものを仕入れて販売していたのだ。まだ酒問屋でも「赤玉葡萄酒」や「蜂葡萄酒」と呼ばれる甘いワインしか扱っていない時代に、私の父親は勝沼の「宮光園」までバイクで「大黒生葡萄酒」を仕入れに行っていたのである。

 父親は、ブドウの収穫期には「宮光園」へ私を連れて行ってくれた。

 行けば毎年、白い割烹着姿のおばちゃんがぶどう棚の下の頑丈なテーブルの上に私を立たせてくれて、「さあ。好きなだけ採ってお食べなさい!」と言ってくれるのである。さらに帰りには、子供には大き過ぎる手提げの竹籠にいっぱいのブドウのお土産をいただけるのだ。私に、ワインに対する無意識の思い入れがあるとすれば、このやさしい白い割烹着のおばちゃんとお腹いっぱいのブドウへのノスタルジーなのだと思う。

 のちに、元メルシャン理事・勝沼ワイナリー工場長の故浅井昭吾さんから「うちもミュスカデをリーファーで輸入したから発表会に来てね」との連絡をいただき、そこでお会いして「宮光園」の思い出話をした。

「なんとなく覚えているなあ、バイクの子連れの酒屋さん。白い割烹着姿のおばちゃんは、和服でスッラとした品のよい人だったでしょ」
「はい、スラッとして上品で笑顔のやさしいおばちゃんという思い出だけが残っています」
「それ、宮崎社長の奥様だよ。僕は未だ入社前の学生のころだと思うよ」

 ニコニコと話してくれる浅井さんの笑顔と白い割烹着姿のおばちゃんの笑顔が妙にダブった。

 そして浅井さんの著書「比較ワイン文化考」(氏の筆名は麻井宇介。中公新書1981年刊)こそは、今も私のワインのバイブルである。異文化を取り込む際の注意事項がギッシリとちりばめられた名著である。

 そして、本連載第1回の《回想の1》「原料ブドウの混醸比」で登場した勝沼のワイン農家の若き後継者の方々は、“○○先生”から離れ、「勝沼を愛した浅井さん」の弟子を自認している方々だった。浅井さんとの親交が先であれば、余計な出費はなかったであろうに。

About 大久保順朗 82 Articles
酒類品質管理アドバイザー おおくぼ・よりあき 1949年生まれ。22歳で家業の菊屋大久保酒店(東京都小金井市)を継ぎ、ワインに特化した経営に舵を切る。「酒販ニュース」(醸造産業新聞社)に寄稿した「酒屋生かさぬように殺さぬように」で注目を浴びる。また、ワインの品質劣化の多くが物流段階で発生していることに気付き、その改善の第一歩として同紙上でワインのリーファー輸送の提案を行った。その後も、輸送、保管、テイスティングなどについても革新的な提案を続けている。