VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(5)

村垣淡路守範正、新見豊前守正興、小栗豊後守忠順
左から村垣淡路守範正、新見豊前守正興、小栗豊後守忠順(「万延元年遣米使節図録」より)

日米修好通商条約批准のため、幕府は遣米使節団を派遣する。このとき、幕府はアメリカが裏切りを働かないかを疑い、アメリカは幕府の本気度を疑っていた。そんな当局の心配事を知ってか知らずか、ある侍がこの機会に渡米したいと言い出す。まだ16歳の立石斧次郎教之という少年だった。

教科書の1行の背景に秘められたドラマ

 4隻の黒船が浦賀沖に現れてから7年。江戸幕府は不承不承外国船への水と燃料の提供を約束し、やがてそれまで中国とオランダのみに制限していた貿易を欧米各国と行うことに同意した。江戸幕府は、日米修好通商条約をお互いに確認(批准)するために、アメリカに使節を送ることを決めた。

 この辺のことは、歴史の専門書はともかくとして、普通の教科書では1行で片づけられる話だ。だが、200年以上海外との交流を絶っていた江戸幕府にとっても、“あわよくば”でペリーを派遣して意外なほどすんなりと開国要請を受託“されてしまった”発展途上国のアメリカにとっても、お互いに手探り状態で進めた話であって、これに至るまでにさまざまな逸話が秘められているのだ。

日米ともに疑心暗鬼の中での使節団出発

 アメリカは安政5(1858)年7月に日米修好通商条約を調印した後も、それまでのらりくらりと結論を先延ばしし、言外に「開国なんて、したくなかった」という態度を露骨に出してくる幕府に手を焼いてきた。一向に進展しない、むしろ遅滞を望んでいる態度を隠そうとしないお役所仕事に散々付き合わされてきたアメリカは、その苦い経験から、江戸幕府がどこかで重箱の隅をつついて土壇場で批准を断ってくる可能性さえ、幕府が訪米団出港予定日を明らかにする半年前まで疑っていたし(North China Herald紙1859年10月29日)、幕府は幕府で訪米する使節にアメリカがどんな難癖をつけてくるかわからないと疑っていた。

 たとえば――遣米使節がアメリカに到着したところを見計らって、当初アメリカ政府が幕府に約束していた訪米団の滞在費の全額負担を“人質”にとって日本側に不利な追加条項をいきなり持ち出してくる――言ってみればちゃぶ台返しをされて訪米団が異国の路頭に迷うことがないか。その最悪の事態を避けるため、彼らの船には10万ドルが積み込まれていた(New York Times紙1860年4月15日)。「江戸と上方」(池田弥三郎著)等の資料で換算すると、現在の価格で4億~5億円近い金を「なにかあった時のために」と持たせている。初めての経験に困惑する江戸幕府と、外交的には大成功を治めたものの、その成果の大きさに当惑するアメリカ。お互いが疑心暗鬼の様子だった。

16歳の通詞見習い・立石斧次郎教之

 日米両国の上層部がお互いの交渉相手を疑いの目で見ながら「とにかく、なにごともなく終わってくれること」を一番に、万延元年遣米使節の条約批准準備を進めていた頃、双方の当局者の心配事などどこ吹く風、とばかりにアメリカに熱い視線を向ける、まだ16歳になったばかりの侍がいた。名を立石斧次郎教之(たていし・おのじろう・のりゆき。幼名為八=ためはち)という。

 彼は、ペリー来航の際に通訳を務めた叔父のオランダ語通詞(世襲の公式通訳)立石得十郎のつてを頼ってアメリカ行きの希望を訴えた。その彼の情熱に周囲が根負けする形で、幕府に遣米団との同行を願い出ることとなった。この際、万一のときも本来の姓である「小花和」をけがすことのないよう、立石得十郎の養子となり、姓を「立石」に変えたエピソードは、当時「洋行」がどれほど日本人にとって縁遠いものだったかを物語る。彼にようやく無給の通詞見習いとして許可が下りたのは出港の2日前だった。

 こうして、幕府の正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順をはじめとする日米修好通商条約批准団71名に加わった立石斧次郎は、まだ定期航路さえ開設されていなかった太平洋に、米国蒸気船ポーハタン号で漕ぎ出していった。勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎を載せた咸臨丸が使節護衛を名目に事実上の米国視察のためにアメリカに向かって出港した5日後のことになる。

威厳を保ちアメリカを下に見ようとする使節団

村垣淡路守範正、新見豊前守正興、小栗豊後守忠順
左から村垣淡路守範正、新見豊前守正興、小栗豊後守忠順(「万延元年遣米使節図録」より)

 ここで、派遣団一行と、受け入れるアメリカ側との思惑を、もう少し仔細に見ておきたい。

 日本側の思惑は、すでに西洋事情に精通していた福沢諭吉等ごく一部の例外を除けば「日本の、国としての威厳を保つ」こと一点にあった。

 とくに副使・村垣範正はこの思いが強く、彼にとってこれから向かうアメリカは、科学技術には見るべきものがあるものの、文化のレベルではお話にならない「夷狄」(いてき/辺境国の野蛮人)だった。村垣の目に映った女性が「髪の毛赤きは犬の目のごとくにて興ざめ」くらいなら個人の趣味の範囲だが、アメリカの歴代大統領の胸像が飾られた大統領官邸は「我国の刑罰場(の斬首台)に見しに等し」く、民主主義の象徴でもある議会は「大声に罵るさま(中略)日本橋の魚市」のようだと切り捨て、男女同権は「妻はあるじの如く、主じは僕(しもべ)のごとく」だと憤慨している。アメリカが彼らに誇らしげに示した民主主義のいま一つの象徴、民主選挙による大統領の選任に至っては「四年目毎に国中の入札にて定めけるよしなれば(中略)上下の別もなく、礼儀は絶て無きこと」と、嘲笑さえして見せている。

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Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。