III 幻の「大日本基準コクテール・ブック」(1)

洋酒文化の歴史的考察
洋酒文化の歴史的考察

戦前のカクテルについて調べていると、「大日本基準コクテール・ブック」という書名がしばしば資料に登場する。日本バーテンダー協会が戦前に上梓した本だが、名前こそ知る人はいても、それを持っているどころか、目にしたことがあるという人には出会ったことがなかった。その本が現存するらしいということがわかった。

あり得ない文字に釘付けに

「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」原稿に追われていた昨年11月のある日。筆者は昔のバランタインの瓶を借りるために、古い洋酒に詳しい高田馬場のバーに来ていた。

「古い洋酒と言えば、こんなものがあるんですけど……ご覧になりますか?」

 そう言ってバーテンダーは3冊の大学ノートをカウンターに置いた。表紙をめくると大学ノートではなく、ワープロで丹念に写し取ったとおぼしき古いカクテルブックの抄録だった。

――大正13年のカクテルブックの1冊は神田の古書店からの連絡で何年か前に実物を手に入れたし、もう1冊も国会図書館でコピー済みだし……ともあれ、彼の善意にお礼だけは言って帰ろう――そう考えつつ1冊、2冊と眺めた。

 ところが最後の1冊を手にした筆者の目が、そこにたった1行記された「大日本基準コクテール・ブック」の文字に釘付けになった。

半世紀以上前に失われた希書

 幻の「大日本基準コクテール・ブック」を、筆者がこの日まで10年以上追い続けるきっかけになったのは、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」(現「ガゼット」)の古い記事だった。昭和34(1959)年に協会創立30周年企画として、筒井計男から戦前の話を聞いた特集「私のコクテール」がある。

 筒井計男という人は、大正12(1923)年に「カフェー・ライオン」で伝説のバーテンダー浜田晶吾に師事したのを振り出しに、日本郵船オーストラリア航路の客船の酒場(バー)勤務の後、現在も営業している銀座のバー「ボルドー」に入った。満州国皇帝溥儀を宮中に招いた際にはマティーニを作ったという、戦前バーテンダーの重鎮の一人で、後に同協会名誉顧問。言わば、戦前のバーテンダーたちが憧れる経歴・肩書をまとめて持っていた方だ。

 その記事中、「『大日本基準コクテール』実現の前後」という段に、こんなくだりがある。

「実は、この記事はJBA(現NBA/筆者註)の『大日本基準コクテール』を掲げて、皆さんに比較して頂きたいと思っていたわけですが(中略)あの『大日本基準コクテール』を作った当時のことをご存知でしたら一つ。」

「当時はコクテール・ブックなどはなく、外人から直接習った、これらの先輩の仕事を横でみていて覚えたものです。ミスター・ボストン(“The Old Mr. Boston Official Bartender’s Guide”、初版1935/筆者註)、ABCコクテールブック(“Harry’s ABC of Mixing Cocktails”、初版1922・筆者註) が東京に入ってきたのはその後になりますね。そのうちに協会が出来、数寄屋橋の処へ事務所を持つようになった頃でしょう、サヴォイのコクテール・ブック(“The Savoy Cocktail Book”、初版1930――以上3冊が戦前バーテンダーのバイブルだった/筆者注)が丸善に入ったのを覚えています(中略)JBAの創立当初の頃、村井洋という一時グランド銀座の主任をされていた人が、非常にコクテールの集成に努力されまして、海外の文献を取り寄せ、つまりボストンとか、ABCからサヴォイをも含めたそれぞれのブックからコクテールの処方を集成されたものなんです。このデータを基本にして作ったのが、「大日本基準コクテールだと、私は聞いています。」

「私共は筒井さんよりもさらに若輩ですので、基準コクテールが出来た経緯などを全然知りませんし、また基準コクテールのブックを見たこともないんです。」

「そう、当時のブックを持ってる人はそうないでしょうねぇ。村井さんという方は、文献を非常に研究された方ですが、他に浜田さん(浜田晶吾/筆者註)等がおられて、その人々の技術が日本に拡まったわけでしょう。」

 すでに、今から半世紀以上も前の昭和34年の時点で、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の編集者でさえ見たことがなかった「大日本基準コクテール・ブック」――それが平成23年に、現存するのか?

当時のバーテンダー待望のスタンダード

 存在が明らかになれば日本洋酒史上、画期的な発見になるほどの第一級資料でありながら、「大日本基準コクテール・ブック」は上掲記事で筆者がその存在を知ったときから、誕生の経緯そのものが謎に包まれていた。

 日本バーテンダー協会史には「昭和11年3月、『村井洋氏などスタッフが集めた内外六十五冊のコクテール・ブックを中心に編成され、一年半にわたって協会理事のみの研究会で検討採択を重ね」とある。ところが、村井と共に大日本基準コクテール・ブック編纂に協力した、後のNBA西日本本部副会長杉山信一は「昭和6年発行」と「ドリンクス」で語っている。

 今から50年以上前には、すでにその名前が独り歩きしていながら、その実物を見たことのある人は戦後生まれではほとんどおらず、いつ発行されたのかさえ定かではなかったことになる。

 このカクテルブックの価値は単に古いことにあるわけではない。カクテルのメッカ、アメリカで1880~1890年代(日本では明治中期)に最初のピークを迎えていたカクテルブックの出版ラッシュの波は、昭和5(1930)年頃には日本にも及んでいたから、国会図書館で「昭和5~15年頃に出版された日本語のカクテルブック」というだけのくくりで当たるならば、戦前のものを探すことは、実は難しいことではない。

 それらの中には海外の文献を丸写ししただけの代物や、日本では入手不可能な材料を書き連ねたもの、明治40年のカクテル解説書のように実際にカクテルを調製した経験がなさそうな西洋料理畑の方が書いたもの(冒頭に記した、私が神田の古書店から入手したものもこれにあたる)など、現場の役に立ちにくいものが多かった。

 北は樺太から南は台湾まで津々浦々に出現していたカフェーで使える実用書……実態に即したカクテルブックの出現が待たれていたのだ。

 また、レシピ(配合)も1冊ごとにバラバラだった。とくにカクテルが普及し始めて間もない地方のバーやカフェーでは、東京でさえ入手困難な海外のカクテルブックを何冊も入手して読み比べることなどできるはずもない。店を訪れた客から「よそで頼んだ時と味が違う」と言われた際の対応のためにも、日本語で書かれた「正統的なカクテルはこれだ」という決定版的なカクテルブックの出現が待たれていた。

 そんな時期に大正10(1921)年から続いていた酒場同志会を吸収統合し、日本で唯一のバーテンダー組織として昭和4(1929)年に発足したJBAが満を持して出版したのが「大日本基準コクテール・ブック」だったわけである。

About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。