サリナスに嫁いだ“李香蘭”

[113]外国映画の中の“勘違い”日本食文化(2)

レタスの収穫

外国映画で描かれる日本の食にスポットを当て、その勘違いぶりを指摘するシリーズ。少々間が空いたが、2回目は昨年亡くなった山口淑子(1920―2014)が第二次世界大戦後に出演したアメリカ映画を取り上げる。

 今回は趣向を変え、製作者の立場から擁護を試みてみたい。

2つの祖国と3つの名前

 山口は、1920年に満州(現在の中国東北地方)の奉天(現在の瀋陽)で日本人夫妻の娘として生まれた。満鉄(南満州鉄道)の職員で、中国人との付き合いが多い父親の下で育った彼女は、親友の子女を儀礼上の養子にする中国の習慣に従い、いくつかの中国名を得た。その一つが後の彼女の数奇な運命を象徴する名前「李香蘭」である。

 中国語が堪能で、白系ロシア人のオペラ歌手から声楽を学んだ山口は、満州事変の翌年の1932年に奉天放送局(関東軍特殊無線部所管)の歌謡番組に専属歌手としてスカウトされ、李香蘭という名前が芸名として初めて使われた。日中戦争が勃発した翌年の1938年には、満州国の国策映画会社である満映(満州映画協会)から“中国人女優・李香蘭”として女優デビュー。長谷川一夫と共演した「白蘭の歌」(1939)、「支那の夜」(1940)、「熱砂の誓ひ」(1940)等で人気を博し、映画の主題歌や劇中歌等で歌手としても成功をおさめた。

 その人気は1941年に東京の日劇(現在の有楽町マリオン)で行われたコンサート「歌う李香蘭」に詰めかけた観客が劇場を7周半も取り囲むほどだったという。

 終戦後は漢奸(日本人に協力した中国人の売国奴)として中国の軍事裁判にかけられるが、処刑寸前で日本人であることが証明され国外追放処分となった。帰国後は本名の山口淑子に芸名を改め、「わが生涯のかがやける日」(1948、吉村公三郎監督)、「暁の脱走」(1950、谷口千吉監督)、「醜聞(スキャンダル)」(1950、黒澤明監督)等に出演した。

 ここまでの彼女の波乱の半生は、劇団四季の「ミュージカル李香蘭」(1991~)やテレビドラマ(1987、2007)等で描かれているが、今回話題にするのは、その後彼女がハリウッドに渡り3つ目の芸名「シャーリー・ヤマグチ」名義で出演した2本のアメリカ映画「東は東」(1952)と「東京暗黒街 竹の家」(1955)である。

「東は東」の猿の生贄とレタス

「東は東」は、「群衆」(1928)、「ハレルヤ」(1929)、「チャンプ」(1931)、「城砦」(1938)、「戦争と平和」(1956)でアカデミー賞の監督賞に5度ノミネートされたサイレント時代以来の名匠キング・ヴィダー監督による山口のハリウッド進出第1作である。

 原題にある「War Bride」(戦争花嫁)とは進駐軍の兵士と結婚した現地女性のことで、本作では朝鮮戦争で負傷し日本の赤十字病院に収容されたアメリカ人兵士、ジム・スターリング中尉と恋に落ちて結婚し、夫の故郷であるカリフォルニア州サリナスへ渡った日本人看護師、清水妙(ヤマグチ)のことを指している。

 ジムは妙の実家に結婚を申し込みに行き、幼い頃に父を亡くした妙の祖父、英太郎(フィリップ・アーン)から承諾を得るのだが、婚約の儀式として英太郎が座卓の上の2匹の猿を生贄として饗しようとし、ジムが衝撃を受けるという場面がある。無論日本のどこにもそんな風習はないのにこのようなシーンを挿入した背景には、この時代のアメリカ人が日本人に抱いていた野蛮なイメージを利用し、後のドラマの伏線にしようとする製作者側の意図があったと思われる。

 一方、サリナスに渡ってからのシーンは、“世界のサラダボウル”と呼ばれるこの地方を舞台にした「エデンの東」(1955、本連載第51回参照)の時代を経て、機械化が進んだレタスのコールドチェーンのスピーディーな体系が描かれていて、スローなテンポで妖しさを醸し出していた日本のシーンとは好対照をなしている。

レタスの収穫
ベルトコンベアを使ったレタスの収穫。

 各畝に配置された作業者が横一列に並んでレタスを次々にベルトコンベアに載せていく積込機(図参照)は、レタスの収穫と運搬を1種類の行程で行える。収穫されたレタスはトラックで鉄道の駅に隣接した集荷場に運ばれ、ベルトコンベアによる流れ作業で保冷用の氷と共に箱詰めされ、鮮度を保ったまま貨物列車で東部に運ばれるといった具合で、見学に来た妙は目を見張る。戦前の作品「麦秋」(1934)で開拓農家を描いたヴィダー監督の農業に対する確かな視点が感じられるシーンである。

 またスターリング家の電気冷蔵庫等を備えた近代的なシステムキッチンも、日本から来た彼女にとっては夢のように映ったことだろう。

 しかし、邦題が暗に示す東西の超えられる溝のように、映画は夢物語では終わらない。サリナスの中でも息子を真珠湾攻撃で亡くしたことで“ジャップ”を頑なに毛嫌いする母親や、敵国出身ということで戦時中に強制収容所に入れられたことを根に持つ日系1世がいたりと、太平洋戦争が落とした影が両者の相互理解を一層困難にしていて、その中に放り込まれた国際結婚の夫婦は周囲から疎まれる。そしてジムを密かに思う兄嫁フラン(マリー・ウィンザー)の策略によって、ジムと妙が授かった赤ん坊が、実は隣人の日系2世シロー・ハセガワ(レーン・ナカノ)の子なのではないかという心ない噂が流され、2人は破局の危機を迎えるのである。

「東京暗黒街 竹の家」の“シングル”

「東京暗黒街 竹の家」は、1948年製作の「情無用の街」の舞台を戦後の日本に置き換えたギャング映画で、同作品のハリー・クライナーが脚本を書き、「鬼軍曹ザック」(1950)、「拾った女」(1953)、「地獄と高潮」(1954)等のサミュエル・フラーが監督を務めたカラー/シネマスコープ作品である。ロケ撮影は東京、横浜等で行われたが、シリーズ1回目で紹介した「東京ジョー」(1949)と同様に、屋内シーンのほとんどはハリウッドのスタジオで撮られたものである。

 農夫になりすましたギャングが富士山の麓を走る軍の補給列車を襲い、警備のアメリカ兵を殺して積荷の武器弾薬を奪うという西部劇のようなオープニングから、その首謀者で東京中のパチンコ屋を裏で牛耳る黒幕サンディ(ロバート・ライアン)の率いるアメリカ人犯罪組織に、事件の捜査のために来日した軍秘密警察の捜査官スパニア(ロバート・スタック)が、襲撃の際に逃げ遅れて仲間に殺されたウェバーの友人を名乗って潜入し、警視庁のキタ警部(早川雪洲)やウェバーの妻マリコ(ヤマグチ)と協力して一味を追い詰めていくというのがおおまかなストーリーである。

 この映画を語る上で避けて通れないのが、公開当時の日本のマスコミによる「国辱映画」という酷評である。確かに、ありそうでない「竹の家」(House of Banboo)という原題に始まり、GHQ時代のように幅をきかせる在日米軍、畳の上を土足で歩くアメリカギャング、日系人俳優たちによる変なアクセントの日本語、和服姿が多過ぎる通行人、鎌倉の大仏が東京にあったりする位置関係のおかしさ、ギャングの祝宴で日舞を踊っていた芸者が和服から洋服姿に早変わりしてツイストを踊り始める等、全編にわたってツッコミ所が満載で、同時代を生きる日本人が怒ったのも無理はないだろう。

 スパニアからサンディの身辺を探るよう命じられたマリコが、それまで彼を警戒していたのが突然従順になり、甲斐甲斐しく彼の身辺の世話を始めるのもその一つで、彼を朝風呂に入れ、卵を銀座で買ってきましたが朝食は何にしますかと聞かれてスパニアが所望したのが“シングル”。シングルとはいわゆるポーチドエッグのことなのだが、肉の焼き加減のように卵のゆで加減を表したもののようである(では、ゆで卵は“ダブル”になるのだろうか?)。ともかく理解した彼女はトーストにポーチドエッグを乗せベーコンを添えた朝食を用意すると、スパニアはいつもそうしているから湯船に浸かったまま食べるという。時間を節約するアメリカの都会人とのカルチャーギャップを感じるが、かくして風呂でポーチドエッグを箸で食べるという珍妙な光景が繰り広げられる。

映画とは戦場のようなもの

 うまいと食事を誉める彼にお辞儀するマリコ。ヤマグチは当時のインタビューで日本の生活風習への誤解に対する修正を申し入れたと述べているが、一俳優の意見は通らなかったようである。

 しかし、製作から60年を経た現在では、当時の日本も外国と同様に映る――浅草の国際劇場やクライマックスに登場する浅草松屋屋上遊園地の地球儀型水平回転式観覧車「スカイクルーザー」等のロケ地の映像は、1950年代の東京を伝える貴重な映像資料となっているのは皮肉なところである。また、時折見られる誇張も、エンターテイメントを最優先にしたフラー監督流の表現と見れば納得はいく。

 ちなみに冒頭の列車強盗のシーンは、富士山をバックに蒸気機関車を走らせたいという監督の希望で、電化されていた区間にわざわざ蒸気機関車を持ってきて、電車を運休にして走らせたという。

 筆者にとってのベストフィルム「気狂いピエロ」(1965、ジャン・リュック・ゴダール監督)に1シーンだけ出演したフラー監督は、主人公のジャン・ポール・ベルモンドにこう述べている。

「映画とは戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言えば、感動だ」

大鷹淑子としての後半生

 アメリカに渡った山口はニューヨークで日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチと出会い結婚するが、「東京暗黒街 竹の家」を撮り終えた1955年に離婚、日本に帰国する。その後ショウ・ブラザースと東宝合作の特撮映画「白夫人の妖恋」(1956、豊田四郎監督)に出演した他、数本の香港映画に李香蘭名義で出演した後、1958年に外交官の大鷹弘と再婚。芸能生活20周年記念映画「東京の休日」(1958、山本嘉次郎監督)への出演を最後に映画界を引退した。

 しかし1969年にはフジテレビのワイドショー番組「3時のあなた」の司会者として芸能界に復帰。5年後の1974年には参議院議員選挙に自民党公認で全国区(当時)から立候補して当選した。3期18年務める間、主に外交問題に手腕を発揮し、日本パレスチナ友好議員連盟事務局長、環境政務次官、自民党アジア・アフリカ問題研究会事務局長・中東問題小委員長、日本ミャンマー協会会長、参議院外務委員長等を歴任し、1992年に政界を引退。1993年には勲二等宝冠章を受章した。政界引退後もアジアの紛争地域の平和や戦争被害者への補償に腐心し続けたのには、心ならずも大きな力に利用され続けた彼女の贖罪という言葉だけでは括れない強い意志が感じられる。

参考文献
「李香蘭 私の半生」山口淑子、藤原作弥 共著(新潮文庫 1987)
「李香蘭と原節子」四方田犬彦 著(岩波現代文庫 2011)

【東は東】

「東は東」(1951)

作品基本データ
原題:Japanese War Bride
製作国:アメリカ
製作年:1951年
公開年月日:1952年5月1日
上映時間:91分
製作会社:バーンハード・プロ映画
配給:大映
カラー/サイズ:モノクロ/スタンダード
スタッフ
監督:キング・ヴィダー
脚本:キャサリン・ターニー
原作:アンソン・ボンド
製作:ジョセフ・バーンハード、アンソン・ボンド
撮影:ライオネル・リンドン
美術:ダニエル・ホール
音楽:エミール・ニューマン、アーサー・ランジ
編集:テリー・モース
キャスト
清水妙:シャーリー・ヤマグチ(山口淑子)
ジム・スターリング:ドン・テイラー
アート・スターリング:キャメロン・ミッチェル
フラン・スターリング:マリー・ウィンザー
エド・スターリング:ジェームズ・ベル
清水英太郎:フィリップ・アーン
シロー・ハセガワ:レーン・ナカノ

【東京暗黒街 竹の家】

「東京暗黒街 竹の家」(1955)

作品基本データ
原題:House of Banboo
製作国:アメリカ
製作年:1955年
公開年月日:1955年8月27日
上映時間:102分
製作・配給:20世紀フォックス
カラー/サイズ:カラー/シネマ・スコープ(1:2.35)
スタッフ
監督:サミュエル・フラー
脚本:ハリー・クライナー、サミュエル・フラー
製作:バディ・アドラー
撮影:ジョー・マクドナルド
美術:ライル・R・ウィラー、エディソン・ハー、ウォルター・M・スコット、スチュアート・リース
音楽:リー・ハーライン、ライオネル・ニューマン
録音:ジョン・D・スタック、ハリー・M・レオナルド
編集:ジェームズ・B・クラーク
特殊効果:レイ・ケロッグ
キャスト
サンディ・ドーソン:ロバート・ライアン
エディ・スパニア:ロバート・スタック
ナゴヤ・マリコ:シャーリー・ヤマグチ(山口淑子)
グリフ:キャメロン・ミッチェル
ハンスン大尉:ブラッド・デクスター
キタ警部:早川雪洲

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。