「美味しんぼ/醤油の神秘」の誤り

脱脂加工大豆
脱脂加工大豆

近年、丸大豆しょうゆの消費量が増加している。脱脂加工大豆を原料とする通常品に比べ、香りや味に差異があることが明らかになってきた。丸大豆は原料価格が高く、使用するために工夫が必要だ。本商品を望む消費者だけでなく、メーカーにも有益な商品なのである。

大手しょうゆメーカーの堕落?

「美味しんぼ」第3巻(作・雁屋哲、画・花咲アキラ)

 2010年4月、文部科学省主催の科学技術週間サイエンスカフェで講師を務めた。タイトルは「おいしさを造る微生物」で、25名程の参加者の多くは一般市民だ。

 しょうゆを含む醸造と微生物の話の後、意見交換の時間になった。やり取りの中で、ドキッとする質問があった。「どうして、大手しょうゆ会社は堕落してしまったのですか?」という。

 何のことかわからなかったので、説明を続けていただいた。「本来、しょうゆは丸大豆で造るべきものなのに、脱脂加工大豆を用いている」ということだった。これには現状を解説し、堕落ではないとお話しした。専門家の説明に、質問は続かなかったが、納得されない様子だった。

 料理やグルメを扱うマンガは、数多い。老舗に、「美味しんぼ」という作品がある。多様なテーマを取り上げているが、原作者の雁屋哲氏の姿勢は単純である――大きな柱は、消費者からの嫌われ者三兄弟「食品添加物」「農薬」「遺伝子組換え作物」といった人工物は避けるべしというものだ。その話の中には、農薬や遺伝子組換え作物の安全性に関して、事実に反する内容が含まれる。食品安全情報ネットワーク(FSIN)は、掲載雑誌編集長に情報を提供し、話合いを行っている()。

 しょうゆも「醤油の神秘」という回(第3巻・第5話)でやり玉に挙げている。曰く、大手メーカーは大量生産のために、油の搾りかすである脱脂大豆を用い、醸造期間は2カ月。造り方に無理があるため、化学調味料、甘味料、香料、アルコール等の添加物で味を整えるという。それに対して、小さなメーカーは昔ながらの方法で丸大豆を用いて2年半醸造する。両者を比較すると、しょうゆそのものでは大差なくとも、刺身やせんべいでは小メーカーに軍配が上がるという内容だ。

 わかりやすい論理展開なので、信じてしまう人が多いだろう。しかし、原作者の調査不足なのか意図的な歪曲かは不明だが、上記内容は間違いだらけだ。娯楽マンガであれば、読者に受けてナンボということはわかる。ただ、事実と異なる内容をベースに話を展開して人気を取るということはあってはならない。

 通常のしょうゆ造りに脱脂加工大豆を用いることは事実である。しかし、添加物はアルコールのみ、または無添加が多い。これはラベルを確認すれば、誰でもすぐにわかることだ。醸造期間は6カ月程度が普通だろう。熟成期間は長い方がよいと考えるのは、陥りやすい誤りである。醸造期間が長くなれば、芳香成分の飛散、色の黒色化、うま味成分グルタミン酸の低下が起きる。刺身やせんべいで差異があると言っても、これは好みの問題で、万人の嗜好が一方に偏ることはない。

※まんが「美味しんぼ」に訂正要求
https://sites.google.com/site/fsinetwork/katudou/oishinbo

戦時下の政府による丸大豆使用の禁止と戦後の物資不足

脱脂加工大豆
脱脂加工大豆

 太平洋戦争中、あらゆる物資が不足した。しょうゆ醸造も大変苦労があったと聞く。開戦前夜の1940年には、政府によって丸大豆の使用が禁止されている。戦後になっても、状況の改善ははかばかしくなかった。原料の丸大豆が入手できなかったのである。そこでやむを得ず使用したのが脱脂大豆であった。

 当時はバッチ式(まとまった量のものをまとまった時間をかけて処理する方式。対語は連続式)の釜で大豆の蒸煮を行った。炒って砕いた小麦と合せ、麹菌を接種して板蓋(トレイ)を用いて麹を造った。

 その後、脱脂大豆の製造法が改良され、しょうゆ醸造に適したNSI(水溶性窒素指数)の脱脂加工大豆(第31回「脱脂大豆は“ダイズカス”に非ず」参照)が供給されるようになった。並行して、脱脂加工大豆に適した高温短時間処理の蒸煮缶が開発された。この装置は、さらに連続蒸煮缶へと進化する。麹の造り方も板蓋式から大規模な通風製麹式に移行する。昭和30年代(1955年~)のことである。

 麹と塩水を混合して、発酵させるのが仕込み工程である。本工程も技術革新が進んだ。タンクは大型化し、温度や撹拌管理が容易になった。本設備であれば、理想的とされる「春仕込み」の温度経過を通年で再現可能だ。乳酸菌や酵母といった醗酵微生物の制御技術も確立された。高品質のしょうゆが効率よく安定して造れるようになったのである。

脱脂加工大豆はしょうゆ醸造に適していた

脱脂加工大豆と丸大豆
脱脂加工大豆使用と丸大豆使用のしょうゆがあるが

 1990年に丸大豆しょうゆが復活した。丸大豆しょうゆが欲しいという消費者の要望に応えてのことである。ここで、丸大豆しょうゆの定義に触れておかねばなるまい。公正競争規約では、脱脂加工大豆を使用しないしょうゆに「丸大豆」表示が許される。“丸”は成分を欠いていないことを意味する。

 技術的な側面を説明する。やや専門的になるが、お付き合いいただきたい。

 しょうゆ醸造の現場で実際に使用される大豆の形態は、消費者のイメージとは異なるだろう。割砕または圧扁した状態の場合が多い。連続蒸煮缶で丸大豆を直接処理しようとすると、中心部が生煮えになるためである。

 麹を造る製麹(せいきく)工程でも、脱脂大豆使用の場合と丸大豆使用の場合とでは差異がある。C/N比(炭素量と窒素量の比率)が高いことなどが影響するため、出麹(完成した麹)のpHと水分は、丸大豆が低い。この結果、窒素利用率やグルタミン酸率を向上させる重要な酵素であるアルカリプロテアーゼ、ロイシンアミノペプチダーゼ、グルタミナーゼは、丸大豆の方が低くなる。

 原料の加熱処理により、タンパク質は不溶性になる。これをプロテアーゼがペプチドに、ペプチダーゼがアミノ酸にまで分解する。アミノ酸等は水溶性で、窒素利用率というのは、タンパク質がどれだけ可溶化したかを示す。グルタミン酸率は可溶化窒素に占めるグルタミン酸の割合をいう。アミノ酸等はしょうゆのうま味になるが、グルタミン酸はとくにうま味が強い。しかし、通常、丸大豆はこれらの酵素が低いため、窒素利用率やグルタミン酸率が低くなるのである。

 仕込み工程でも、両者の差異が存在する。麹と塩水を混合したものを諸味(もろみ)という。丸大豆の仕込みpHは出麹pHの影響により低くなる。その結果、乳酸菌の生育は抑制され、乳酸の生成は低くなる。ただ、アルコールやさまざまな芳香物質を造る酵母の制御技術は進んでいるので、どちらでも適切な醗酵管理ができる。

 原料の違いは、さらなる差異を生じる。丸大豆の場合、丸大豆に20%程度含まれる脂質に由来する油脂(しょうゆ油)が諸味表面を厚く覆う。これは、元の脂質も一部残るが、脂質分解酵素リパーゼによって、多くは脂肪酸とグリセリンに分解される。グリセリンは水溶性だが、脂肪酸は炭素鎖が長く水に溶けない。

 それでも、脂肪酸の大半がエチルエステルを形成し、アルコールを減少させる。さらに醗酵で生じた香り成分の多くは親油性のため、しょうゆ油に移行してしまう。さて、諸味を圧搾して、しょうゆ油と粕を分離した後、火入(加熱)を行って製品となるのだが、こうして出来たしょうゆ油は食用にならない。エチルエステルを消化できないためだ。

高値でも売れる丸大豆しょうゆ

 丸大豆で造るしょうゆ商品と脱脂加工大豆で造るそれとでは、官能的な差異がある。普通の人でも少し訓練すれば、両者を識別できる。顕著なのは香りである。しょうゆは、300種類を超える香り成分を含むのだが、それら成分のほとんどは、丸大豆を使ったしょうゆで低い。表現を工夫すれば、「穏やか」ということができる。

 両者は、味にも差異が認められる。しょうゆ中に生じるグリセリンの多くは、大豆の脂質に由来する。醗酵酵母も造るため、絶対的にとは言えないが、グリセリンの量は丸大豆を原料とする場合で高い。グリセリンには甘味があるため、しょうゆの味をまろやかにすることになる。この効果は、低いグルタミン酸率という欠点をカバーすると考えている。

 このように、丸大豆のしょうゆと脱脂大豆のしょうゆとでは相異なる特徴を持つ。どちらが優れているか比較することに意味はない。

 それでも、「しょうゆ原料は丸大豆であるべき」という考え方があることは尊重したい。そういう消費者がいる限り、彼らのために丸大豆しょうゆを提供するのは、メーカーの務めである。

 しょうゆ全体の消費量は、わが国では毎年減少している(第17回「しょうゆの将来」参照)。一方、丸大豆しょうゆの生産量は増加している。通常品は販売競争が激しく、特売の目玉商品にされることが少なくない。その点、丸大豆しょうゆは高価で特売品にはなり得ず、適正な利益を確保できる。本商品を望む消費者はもちろん、メーカーにも有益で大切な商品なのである。

横山勉
About 横山勉 57 Articles
横山技術士事務所 所長 よこやま・つとむ 休刊中の日経BP社「FoodScience」に食品技術士Yとして執筆。元ヒゲタ醤油品質保証室長、2010年独立。食品技術士センター副会長(http://fpcc.jimdo.com/)。ブログ「食品技術士Yちょいワク『食ノート』」を執筆中(http://blogs.yahoo.co.jp/teckno555)。