エスコフィエとピーチ・メルバ

[262]「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」から

現在公開中の「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」は、ノエル・カワードによる戯曲を映画化した「陽気な幽霊」(1945、デヴィッド・リーン監督)のリメイクである。今回は舞台を1937年のロンドンに設定し、スランプに陥った作家チャールズ(ダン・スティーヴンス)が、霊媒師のマダム・アルカティ(ジュディ・デンチ)を使ってアイデアの提供者だった元妻エルヴィラ(レスリー・マン)を呼び出すが、現在の妻ルース(アイラ・フィッシャー)にばれて騒動になるというスクリューボールコメディを現代的にアレンジしている。

 この劇中、チャールズがエルヴィラと再会する場面で「部屋がピーチ・メルバみたい」というオリジナルの戯曲にはないエルヴィラのセリフがある。今回はこのセリフのピーチ・メルバを深堀りしていこう。

ピーチ・メルバの誕生

エスコフィエがネリー・メルバのために作ったのがはじまりの「ピーチ・メルバ」。
エスコフィエがネリー・メルバのために作ったのがはじまりの「ピーチ・メルバ」。

 ピーチ・メルバは、「近代フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエが考案したデザートである。19世紀末のロンドン、サヴォイ・ホテルで料理長を務めていたエスコフィエは、コヴェント・ガーデン(ロイヤル・オペラハウス)での公演のためにサヴォイ・ホテルに宿泊していたオーストラリア出身のソプラノ歌手ネリー・メルバのために、オペラの演目である「ローエングリン」に登場する白鳥をイメージしたデザートを用意した。銀製の皿の底にバニラアイスクリームを敷き、その上に桃を乗せ、氷細工の白鳥で囲み、シュクレ・フィレ(糸状の飴細工)のヴェールを被せたデザートはメルバを感激させ、それ以来このデザートは「ペーシュ・メルバ」(Pêche Melba/Pêcheはフランス語で桃の意)と呼ばれるようになったという。このエピソードはNHKテレビの「グレーテルのかまど」でも以前紹介されていて、エコール辻東京の秋元慎治氏による詳しいレシピがWebで提供されている。

 エスコフィエはその後、サヴォイ・ホテルの支配人だったセザール・リッツと共にサヴォイを去る。両名とも不祥事の責任を取る形だったが、リッツはその頃から「ホテル王」と呼ばれるようになっていく事業展開を開始する。1898年のホテル・リッツ(Hôtel Ritz/パリ)、1906年のカールトン・ホテル(ロンドン)の開業が代表的な仕事で、エスコフィエはそれらの料理の指揮を執り、カールトン・ホテル開業のときに初めて「ペーシュ・メルバ」もメニューに載せた。

「ペーシュ・メルバ」の基本は、「適当に熟した柔らかい桃とヴァニラアイスクリーム、それに砂糖入りのフランボワーズのピュレでできている」(フランボワーズはラズベリー)というもの。このシンプルさ故に、何かとアレンジを加えたくなるのが後世の調理者のさがではあるが、エスコフィエは自伝()の中で「この原則に少しでも反することがあれば、このデザートのデリケートな味を損ねてしまう」と警告している。

映画「メルバ」での描かれ方

 一方、ピーチ・メルバ誕生のエピソードを事実とは離れた脚色で描いているのがネリー・メルバの伝記映画「メルバ」(1953)である。この映画は現在観ることが困難で筆者も未見なのだが、公開当時の資料によると以下のようなもののようだ。

 コヴェント・ガーデン(ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス)でのオペラ公演のためカールトン・ホテル(サヴォイ・ホテルではない)に着いたネリー(演じるのはソプラノ歌手のパトリス・マンセル)。その美しさに心奪われたオーナーのシーザー・カールトン(アレック・クランズ。セザール・リッツがモデルか)は彼女に最上級の部屋を用意する。厨房に案内されたメルバは用意されていたデザートを台無しにするミスを犯してしまうが、カールトンがその場を取り繕い、シェフ(エスコフィエがモデルか)に「このデザートをピーチ・メルバと呼ぼう」と言う。

 このシーンについて「第三の男」(1949)、「禁じられた遊び」(1952)、「大人は判ってくれない」(1959)等の映画ポスターで著名なグラフィックデザイナーの野口久光氏は、プログラムへの寄稿文で「一寸したお笑い」と述べている。このような異聞が現れることからも、ピーチ・メルバの名前の由来がネリー・メルバからきていることが、欧米である程度知られていることがうかがえる。

 さて、ネリー・メルバは最近では「ダウントン・アビー」シーズン4エピソード3に登場している(メルバを演じたのはニュージーランド出身の著名なソプラノ歌手キリ・テ・カナワ)。そして、そのシーズン4エピソード7・8の監督だったのが「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」の監督エドワード・ホールである。彼はこうした経緯から、「ブライズ・スピリット」主人公チャールズの現在の妻ルースの趣味と思われるピンクの壁紙とベル・エポック調のインテリアを見た元妻エルヴィラに「ピーチ・メルバみたい」と言わせることを思いついたのではないだろうか。

1930年代イギリス富裕層の食卓

「ブライズ・スピリット」のピーチ・メルバ以外の食についても見ておこう。チャールズは元妻エルヴィラからアイデアを得た犯罪小説で成功を収めており、映画の大プロデューサーの娘である現在の妻ルースと共にリッチな生活を送っているという設定。

 ルースは朝食に焼きグレープフルーツを頼んで料理人のエドナ(ミッシェル・ドートリス)から「ハリウッドかぶれ」と陰口をたたかれている。チャールズは、薄くスライスしてラックにセットしたトーストと半熟卵を運んで来たメイドのイーディス(エイミー=フィオン・エドワーズ)にToast(温める、こんがり焼く)の語源を尋ね、こんな冷めたものが食えるかと突き返す。このあたりは、1900年代前半のイギリス富裕層の食生活の一端を垣間見るようだ。一方では、エドナがニシンの燻製を焼く庶民的なシーンもある。

 なお、食からは離れるが、映画好きとしてはオリジナルの戯曲にはない、映画の撮影所のシーンが多いのもうれしいところ。チャールズが義父に会いに行ったパインウッド撮影所では、渡米前のヒッチコック作品(1937年公開の「第3逃亡者」か)の撮影中で、そこでエルヴィラが闖入ちんにゅう騒ぎを巻き起こす。また終盤では、自作の脚本を完成させたチャールズがハリウッドに渡ってクラーク・ゲーブル、グレタ・ガルボ主演、セシル・B・デミル監督の撮影現場に立ち会うシーンがあるのだが、そこでは思わぬどんでん返しが待っている。是非劇場でご覧いただきたい。

※エスコフィエの死後発見されていた遺稿を彼の孫とその従兄弟が整理し、死から50年後となる1985年に “Auguste Escoffier Souvenirs inédits” (Jeanne Laffitte) として発行された。その日本語訳「エスコフィエ自伝 フランス料理の完成者」(中公文庫)による。


【ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!】

公式サイト
https://cinerack.jp/blithespirit/
作品基本データ
原題:BLITHE SPIRIT
製作国:イギリス
製作年:2020年
公開年月日:2021年9月10日
上映時間:100分
製作会社:Fred Films, Powderkeg Pictures
配給:ショウゲート
カラー/サイズ:カラー/シネマ・スコープ(1:2.35)
スタッフ
監督:エドワード・ホール
脚本:ニック・モーアクロフト、メグ・レオナルド、ピアース・アッシュワース
原案:ノエル・カワード
撮影:エド・ワイルド
美術:ジョン・ポール・ケリー
音楽:サイモン・ボスウェル
音楽監修:イアン・ブラウン
編集:ポール・トシル
衣裳デザイン:シャーロット・ウォルター
メイクアップ:タラ・マクドナルド
キャスティング:アレックス・ジョンソン
キャスト
チャールズ・コンドマイン:ダン・スティーヴンス
エルヴィラ・コンドマイン:レスリー・マン
ルース・コンドマイン:アイラ・フィッシャー
マダム・セシリー・アルカティ:ジュディ・デンチ
ブラッドマン医師:ジュリアン・リンド=タット
ブラッドマン夫人:エミリア・フォックス
マンディーブ・シン:アディル・レイ
エドナ:ミッシェル・ドートリス
イーディス:エイミー=フィオン・エドワーズ

(参考文献:KINENOTE)


【メルバ】

作品基本データ
原題:Melba
製作国:アメリカ
製作年:1953年
公開年月日:1954月1日
上映時間:112分
製作会社:U・A映画
配給:UA日本支社、松竹
レイティング:一般映画
カラー/サイズ:カラー/スタンダード(1:1.37)
スタッフ
監督:ルイス・マイルストーン
脚本:ハリー・カーニッツ
製作:S・P・イーグル
撮影:テッド・スケイフ
美術:アンドレ・アンドレイエフ
音楽監督:ミューア・マシーソン
録音:G・R・スティーブンソン
編集:ビル・ルースウェイト
カラー・コンサルタント:ジョーン・ブリッジ
オペラシーン監修:デニス・アランデル
キャスト
ネリー・メルバ:パトリス・マンセル
オスカー・ハマーシュタイン:ロバート・モーレイ
チャ-ルズ・アームストロング:ジョン・マッカラム
エリック・ウォルトン:ジョン・ジャスティン
シーザー・カールトン:アレック・クランズ
マダム・マルケージ:マーティタ・ハント
ヴィクトリア女王:シビル・ソーンダイク
トーマス・ミッチェル:ジョゼフ・トメルティ
キャザリン伯母さん:ビアトリス・ヴァーリー
ロジャー:マルセル・ポンチン
ポール・ブラザ:セオドア・バイケル
プリマバレリーナ:ヴィオレッタ・エルヴィン

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。