食品リスクへの対応――トランス脂肪酸への対応を例に

今回はトランス脂肪酸の規制を巡る世界の状況から、食品リスクへの対応について考えてみようと思います。リスク分析という考え方を紹介します。

 トランス脂肪酸は、不飽和脂肪酸の一種で、天然にも食品中に含まれますが、人工物としては植物油からマーガリンやショートニングを作るために水素を添加する(硬化)工程で生じるものです。硬化油は揚げ物に使うと植物油より安定で酸化しにくく、べたべたしないなどの優れた性状と、バター同様の舌触りがありながら、動物性油脂であるバターより健康に良いという触れ込みで1980年代頃に米国などで使用が広がったようです。

 そのトランス脂肪酸が、その後の調査で大量に摂取すると心臓に酸素を供給している重要な血管である冠動脈が狭くなったり詰まったりして生じる冠動脈系心疾患(CHD)リスクを高くするという結果が出て、削減すべきものと見なされるようになりました。確実視されているのは、総エネルギー量に対して3%以上のトランス脂肪酸の摂取と、CHDリスクの増加という問題です。

 食品のリスク評価がどのように行われるかというと、大きく4つのステップから成ります。まず、どのような危険性があるのかを見つける「ハザード同定」とよばれることを行います。これがトランス脂肪酸の場合は、CHDリスクの増加という研究の知見に相当します。そしてそのハザードがどのような性質のものなのか詳細に調べる「ハザードキャラクタリゼーション」と、人々がどれだけその物質に暴露されているのかを調べる「暴露評価」が行われます。トランス脂肪酸の場合、大量に取り続けることでHDLコレステロールを減らしLDLコレステロールを増やす性質があることなどが分かってきました。一方発がん性や遺伝毒性のような作用は特に問題とはならないことも分かりました。

 そして暴露量(摂取量)については、国によっていろいろな結果が出ています。トランス脂肪酸の場合、天然に反芻動物由来食品に含まれるので、天然物と人工由来品を分けるかどうか、トランス脂肪酸の中でも特殊な部類に属する共役リノール酸などのようなものを別枠にするかどうかで、評価結果が若干変わってきます。大雑把に言うと北米での摂取量は比較的多く、アジアやオセアニアではあまり多くないようです。ヨーロッパは国により違うようです。

 そして上述のハザードの詳細情報と暴露量から、リスクの大きさがどのくらいなのかを定量的に評価するのが「リスクキャラクタリゼーション」と呼ばれるものです。その結果、北米やヨーロッパの一部の国ではトランス脂肪酸によるCHDリスクはある程度あるという結論が導き出され、日本やオセアニアなどではほとんど寄与していないという結論が出されています。この違いは食生活の違いによる摂取量の差によるものです。

 リスクがある程度分かったとして、そこから先はそのリスクを如何に削減するか、管理するかという問題があります。まずトランス脂肪酸の規制において最も有名なデンマークは、2003年に工業生産された硬化油について、トランス脂肪酸が100g脂肪当たり2gを超えてはいけないという法的規制を行いました。米国ニューヨーク市は07年以降、レストランなどで提供される食品についてトランス脂肪酸含量を段階的に規制強化してきました。08年7月1日以降は1食あたり0.5g以上のトランス脂肪酸を含む料理を提供してはいけないことになっています。

 トランス脂肪酸含量を国として規制しているのはデンマークのみで、米国ではニューヨーク市に続きいくつかの州や市で同様の動きがあるようです。ただし米国全体としては食品中のトランス脂肪酸含量を表示するようにしているだけです。このトランス脂肪酸含量表示というのが世界の国々では最も多く採用されているリスク管理手法で、米国やカナダ、オーストラリア・ニュージーランド、韓国ではそのような方法を採用しています。さらに立法による規制という形ではなく、食品業界への要請という形でトランス脂肪酸削減対策を行っています。

 このようにリスク評価だけで食品の安全管理が終わりになるわけではなく、リスク評価の結果をどう政策や対策につなげていくかについては、いくつもの選択肢の中から選び、実行、監視しなければなりません。どのような選択肢が望ましいかは、リスクの程度やそれを取り巻く社会状況、どれだけのリソースを使えるかなどによって変わってきます。

 トランス脂肪酸に関しては、当初同じような状況でありながらリスク管理手法として法律による規制を選択したデンマークと、企業との対話による削減を選択したスウェーデンで、07年の時点での市販食品のトランス脂肪酸含量はほぼ同じであったと報告されています(スウェーデン食品局、http://www.slv.se/default.aspx?id=231&epslanguage=EN-GB)。何かを法律で禁止するという場合には、立法のための各種事務手続きはもちろんのこと、施行を確保するための公定法の設定や監視要員の確保など、多くの資源を必要とします。通常それは税金で賄われるわけです。それに比べて対話による方法は後世に長い法律の条文を残すこともなく、税金の支出も少なくて済みます。ですからスウェーデンは自分たちのリスク管理手法の選択が正しいものであったと誇らしげに述べているわけです。少ない費用で同じ結果を得たのですからエレガントと言えるでしょう。

 ただしこの段階ではまだ道半ばであり、本当の目標は「CHDになる人を少なくすること」です。実際問題として、トランス脂肪酸の摂り過ぎが問題になっていたような国々では、もう1つの大きなCHDリスク要因である飽和脂肪酸の摂取量も多く、トランス脂肪酸と違って多くの国で摂取量は削減できていません。従ってトランス脂肪酸の削減に成功しても、飽和脂肪酸の削減に成功しない状況でCHD発症数が観察可能なレベルで減るかどうかは、今のところ予想できません。いずれにせよそのようなデータが出るにはまだしばらく時間がかかるでしょう。

 どのようなリスク管理手法が最適であるかは社会状況によります。企業との対話や国民への注意喚起が成立するには、社会がそれなりに成熟している必要があり、言葉が通じることが前提です。企業が常に短期的な金儲けしか考えず、国民の多くが注意文書を読めないというような社会状況であるならば、厳しい立法と監視でしか安全は守れないのかもしれません。

 そしてハザードの同定に始まる一連の過程のすべてにおいて、さまざまな関係者が情報を交換し合うことをリスクコミュニケーションと呼びます。その際に間違ったことや一方的な情報だけを伝えるといったことが大きな障害となることは、説明するまでもないでしょう。現状では多くの国でメディアが伝えているのは単なるハザード報道であり、リスクコミュニケーションに必要な情報を提供するという重要な社会的責任を果たそうという責任感はないようです。

 またリスクコミュニケーションは、無知なる大衆に知識を授けるという「啓蒙」ではありません。消費者もまた管理方法を決定するリスクコミュニケーションにおいて重要な役割を果たすのです。リスク評価が科学的に行われても、リスク管理手法の選択には社会的環境が大きな意味を持つからです。

 このようなリスク評価・リスク管理・リスクコミュニケーションの3つをリスク分析の三要素と呼んでいます。日本の場合、食品安全委員会がファクトシートを発表していますが、現時点でトランス脂肪酸を規制すべき理由はないと思われます。日本は欧米に比べてCHDが極めて少ないことも理由の1つです(イギリス心臓病支援基金のデータ 26~28ページ)。

 それでも法律で規制せよとの要望は定期的に出されているようですが、法による規制には社会の自由度を狭めイノベーションを阻害するという副作用があり、ほかにもっと有効な使い道があったかもしれない、限りある資源(税金)が使われるのだということは理解した上で要求すべきだと思います。その結果は硬直した社会や税負担の増加や他の公共サービスの削減という形で消費者自身に跳ね返って来ます。

 食品に関してはそもそも単独で完全な栄養が摂れたり絶対安全なものなど存在しないのですから、さまざまな産地の多種多様な食品が供給されることこそが最大のリスクヘッジであり、規制による選択肢の減少は結果的にリスクの増大という事態を招きます。近視眼的でないコミュニケーションにより効果的にリスク削減ができるような社会でありたいと思います。

 なお日本人でのCHD削減対策として最も効果が高いであろう施策は喫煙対策であると考えられていることを追記しておきます。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

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About 畝山智香子 30 Articles
国立医薬品食品衛生研究所安全情報部第三室長 うねやま・ちかこ 宮城県生まれ。東北大学大学院薬学研究科博士課程前期二年修了。薬学博士。専門は薬理学、生化学。「食品安全情報blog」で食品の安全や健康などに関してさまざまな情報を発信している。著書に「ほんとうの『食の安全』を考える―ゼロリスクという幻想」(化学同人)。