宮水コーヒーの謎

神戸の「にしむら珈琲店」のコーヒーに初めて触れたのは、20代半ば、本郷三丁目のビルの一室だった。当時、勤務していた柴田書店は日本信販本社ビルの一画を所有していて、私たちはそこで仕事をしながら、なにやかやと試食をしたりもしていた。


コーヒー。
コーヒー。

「喫茶店経営」(という雑誌がかつてあった)編集部に配属された私は、原稿を書くのもそこそこに、知った風な顔をしてコーヒーを大量に点てては、諸先輩方に押し売りのように配って歩いていた。現実逃避でもあり、趣味の押し付けでもある。そんなことばかりしていた。

 そんなある時、茶器など転がる作業場の片隅に置かれていた、少し変わったコーヒー豆の袋を見つけたのだった。黒い色、深い色、浅い色、中間の色、色とりどりの焙煎のコーヒー豆を配合したマーブルカラーのブレンドだった。材料豆ごとに煎りの深さを変えるブレンドの話を、それまで理屈では聞いていても、はっきり目で見てわかるほどのものを見たのは、それが初めてだった。

 編集部の誰かが、神戸で買って来た「にしむらオリジナルブレンド」だった。面白いと思って早速挽いて、ペーパーで落としてみた。甘く、口の奥までよく行き渡るこくと、うるさ過ぎない香りと。何とも言えず幸せな香味を感じたのを今でも思い出す。

 それ以来、関西へ出張するたび、「にしむら珈琲店」の豆を求めて帰った。職場が変わって関西出張が減った後も、誰か神戸へ行くと聞けば、「にしむら珈琲店」に寄ってもらって、豆を買ってきてもらうようなことがよくあった。今でも好きだ。

 ところが、こんなことを言ってるとおかしなことを言ってくれる友人が出てくるものなのだ。

「にしむらですか」と、ある大阪のカメラマン。車を運転しながら、「齋藤さんね、僕らの間にはね、ヘンな話があるんですよ」と言う。「何です?」と尋ねると、本人も「ヘンな話ですよ」と笑いながら教えてくれる。

「にしむらのコーヒーはね、豆を買って来て、自分で淹れて飲むとおいしいんですよ。ところが、店で飲むとおいしくないんですよ」

 と言わせた途端、言った本人と私とで、車の中で大笑いする。「んな、あほな!」と。

 でも、笑いながら、本人は「ホントですって。いっつもみんなで言いますもん」と言う。で、私も笑ってはいながら、実はちょっと自信がなくなる。「え? それ、ひょっとしてホントなのかな?」と。

 人間の味覚などいい加減なものだ。自分が点てたにしむらのコーヒーがうまかったことはよく覚えている。ところが、いろいろなお客さんがいてがやがやしている店の中で飲んだコーヒーの味は、意外とはっきりとは覚えていないのだ。「その店のコーヒーを店内で飲んでるんだから、その店のコーヒーの味がして当たり前だ」ぐらいにしか思っていなくて、「オレが淹れたコーヒー、ちゃんとうまく入ったかな?」と懐疑的に味わうようなことをしていない。そこへ、「んな、あほな」的な話を振られると、急に自信がなくなってしまうのだ。

 いや。その話を聞いた後、実は何度か「にしむら珈琲店」店内でコーヒーを飲んでいるのだけれども、「確かにオレが自宅で淹れた方がうまいや」とは、残念ながら思うに至らなかった。「ちょっと違う」とは思ったかも知れない。でも、自分で淹れるときは最後の最後まで自分好みに濃さも熱さも渋みの残り具合も調節する。そういうことで出る差であれば、その不名誉な噂は、なにも「にしむら珈琲店」だけについて言われるべき話ではないのだ。どこのどんな豆だって、自分好みに淹れられた方がうまいに決まっている。

 だから暫く忘れていた。――与太に違いない。

 と、思っていたら、その後も何人かの関西の食関係の人たちから、同じ話を聞かされた。断定的に言う人もあれば、伝聞として言う人もあった。それで、「これは“都市伝説”の一つなのかも知れない」と考えた。しかし、であるにしても、何か背景がなければ伝説にまではならないだろうとも考えた。

 謎だ。

 謎が解けそうな手掛かりを得たのは、故河野友美氏の著書を読んでいるときだった。水の硬度についての解説の中で、神戸に「宮水」という水があること、それはミネラルの多い硬水の一種であること、そして酒の醸造に適していることが書かれていて、その一方、茶を淹れるには適さないとも書いてあった。

「宮水」は硬水だったのだ――なるほど。

「にしむら珈琲店」の自慢は、実はあのユニークで繊細なコーヒー豆の焙煎とブレンドだけではなく、コーヒーを淹れるときに使う水を「毎朝西宮、菊正宗の宮水井戸より運んで」いることも、なのだ。

 この都市伝説、水がコーヒー抽出に合っていないために発生したものなのかも知れない。しかし、神戸のプロが、「日本名水100選」に入る宮水で淹れたコーヒーと、コーヒーのプロではない大阪の友人が、いわゆる“琵琶湖の水”(淀川取水の水道水)で淹れたコーヒーとで、後者の方がうまいという話もちょっと眉唾な気がする。あるいは、「水が合わないはず」という理屈に気付いた人が言い出したことなのかも知れない。

 ホントのところ、どっちがうまいのか。そして、それはなぜなのか。まだわからない。ただ、別な場所でおいしいコーヒーに出会うたびに、つい、このことを思い出してはそぞろな気持ちになってしまう。

※このコラムは個人ブログで公開していたものです。

About 齋藤訓之 396 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所客員研究員。昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。日本フードサービス学会、日本マーケティング学会会員。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →