II スパイ・ゾルゲが愛したカクテル(4)

日本に洋酒文化が定着していったプロセスを読み解く第2シリーズ。ゾルゲがクラウゼンに待ち合わせ場所として指定した「ブルーリボン」についての資料はほとんどない。しかし、同店が当代一流であったことを偲ばせる一言の証言がある。

「ブルーリボン」の格を物語る数行

 バー「ブルーリボン」に関しては、筆者の手元に手掛かりになる資料としてはわずか数行の記述しかない。それも店内の雰囲気や酒の種類、バーテンダーの名前といった直接的なものではない――戦後の座談会で、日本バーテンダー協会(当時JBA。後にNBAと改称)の会誌「ドリンクス」編集次長落合芳明が語った「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言だけなのだ。

 だが、筆者はこの証言をもってバー「ブルーリボン」を当時の一流バーの一軒として推すことができる。

 ゾルゲの研究書に出てこない戦前の名バーは銀座だけでも枚挙にいとまがない。たとえばJBAに先駆けて発足していたバーテンダー組織「酒場同志会」会長を務め、JBAでも二代目会長となった高橋顧次郎を擁する「レッドテープ」、「銀座案内」でわざわざ名前を挙げてカクテルの腕前を讃えられた戸部順次の「タンゴ」、温和な人柄から戦後も銀座の長老バーテンダーとして慕われた古川緑郎を生んだ「サンスーシー」、女給全盛の昭和初期にあって女性なしの方針を貫いた鈴木豊松の「スウリール」には、それぞれの名店とされる根拠がある。

 これらに入らないバーであるにもかかわらず、なぜ「ブルーリボン」を語るに足る店だと断言できるのか。そもそも、このたった数行の記述から、何がわかるのか。

 それを説明するためには日本を離れてアメリカの洋酒事情から説明しなければならない。

サルーンが始めたサービス

 禁酒法以前からカクテル誕生に至る歴史を詳細に書き起こしたウィリアムス・グライムス著「Straight Up or On the Rocks」によれば、かつての荒くれ男たちの酒場タバーン(Tavern)が、19世紀に入るとレストラン(食事)、ホテル(宿泊)、サルーン(saloon/酒場)に分かれていく。

 カラオケ全盛時代の日本のスナックのごとく、1800年代のアメリカ中のそこかしこに出来たサルーンは、酒の種類をそろえ、真鍮とマホガニーの内装を磨き上げてゴージャスさを演出し、やがてバーの時代に向かうのだが、競合他店との差別化を図るために一軒のサルーンが始めたのが「フリーランチ」のシステムだった。

 試みにカタカナで「フリーランチ」と入れてネットで検索すると「フリーランチ理論」「ノーフリーランチ定理」などの表現で埋め尽くされる。要は「タダメシなんてあり得ない」という経済学や数学での考え方としてエグゼクティブな方々が使う用語らしい――それらの方面には疎い筆者は初めて知ったが、19世紀アメリカのサルーンで供されていたフリーランチは「タダメシ」の一言で日本人が想像できるような安直な代物ではなかった。

フリーランチのエスカレート

 再びW.グライムスの著書に戻ろう。もともとこれは1830年代後期、日本でいえば幕末にようやく差し掛かり始めた時期に、ニューオーリンズの「Café des Réfugiés」 で「ビールを一杯注文してくれれば、食事はタダで提供しますよ」という太っ腹な企画から始まった。この店でも何種類か選べるスープに始まり、ビーフかハムのポテト添え、ミートパイにオイスターのパテという充実したメニューがそろっていたのだが、その好評を見た他のサルーンが追随した。その結果、ついには一切れ50セントはしそうなローストビーフに始まり、ポテト、ビーツ(赤大根)、パンにチーズで絞めて1ドル(当時)は下らない食事が、たった10セントのビールに10セントのチップを渡せばありつけるところまでエスカレートしていったというのが、ちょうど日本が黒船来航で開国して間もないころだった。

「そんなことができるはずがない」と思う読者には、昭和50年代までレギュラーコーヒーと言えば、やたらに銘柄ばかりそろっているくせに、どれも出し殻のような味だった喫茶店のコーヒーに300円以上を何の疑問もなく払っていたころのことを思い出していただきたい。それがドトールの出現で半値(150円)になり、今や道具をそろえなくても百円ショップで使い捨てドリッパーに入ったレギュラーコーヒーが自宅で飲めることに我々は何の疑問も感じていない。あるいは、モーニングのコーヒーにゆで卵とサラダだけならともかく、ちょっと油断すると丼飯と立派な副菜がついて出てきかねない名古屋名物のモーニングに近いもの……と説明すればお分かりいただけるだろうか。

戦前のバーテンダーたちの功績をたどる

 話を日本のバー「ブルーリボン」に戻そう。

 資金潤沢なゾルゲが同志と落ち合う場所として指定するトーキョーのバー。そこはやはり羽振りのよい外国人が多く集まる店でもある。そのようなバーが、救世軍(戦前から盛んに活動していた)の救貧事業を営業中の店内で始めるわけがない。つまり、座談会で話題になるほど当時日本のバーでは異例だった無料のサンドイッチを「ブルーリボン」が出した理由は、アメリカ・サルーンのフリーランチ・システムを店のオーナーかバーテンダーが知っていて日本で導入したということになるのだ。

 現在では名前さえ残っていない、アメリカの酒場事情に詳しいある日本人が、今から80年前にいた――そのことを「当時『ブルーリボン』では無料でサンドイッチを出していた」というわずか数行の記述が後世の筆者に語りかけてくれているわけである。

 戦後数十年の長きにわたって、日本の洋酒史と言えば鹿鳴館から一挙に進駐軍の時代に飛んで語られるのが普通だった。情報が乏しい中で必死に研鑽を積んでいた戦前のバーテンダーたちの功績を“なかったもの”として封印する“歴史”では語られなかった側面……戦前のバー事情に初めて光を当てた伊藤精介氏の「銀座名バーテンダー物語」出版から二十余年が経過したにもかかわらず、新たな発掘はなされてこなかった。

 本連載では今後も従来語られることのなかった彼らの足跡をたどることで、微力ながら一石を投じていきたいと考えている

 次回は、史実としてのゾルゲ事件をドキュメンタリータッチで撮影した映画「スパイ・ゾルゲ」に登場するウイスキーに、歴史のメスを入れることとする。

(画・藤原カムイ)

About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。