「麦秋」~ハレとケの相克~

[3]小津安二郎のうまいもの(2)

「麦秋」の記念撮影(絵・筆者)
「麦秋」の記念撮影(絵・筆者)

「麦秋」の記念撮影(絵・筆者)
「麦秋」の記念撮影(絵・筆者)

映画の中の食を鑑賞するコラムの第3回。小津安二郎の作品に登場する食べ物についての2回目は、後に名コンビと謳われた小津監督+原節子主演の一作「麦秋」の食事を取り上げる。

 今回取り上げる「麦秋」は、日本映画の黄金時代である1951年に製作され、なみいる強敵を抑えてキネマ旬報ベストテン第1位を獲得している。この時期は小津自身も円熟期を迎えており、「晩春」(1949)、「東京物語」(1953)とあわせ、主演の原節子の役名にちなんで「紀子三部作」と称される名作中の名作である。

移動撮影の意味

「麦秋」(1951、日本)

 前回、小津作品の特徴の一つとして固定画面を挙げたが、本作は例外的にドーリー(移動車)による縦移動・横移動を多用した異色作である。原節子と三宅邦子が会話する砂浜の場面では、小津作品唯一のクレーンショットも見られる。

 これはストーリー展開と無縁ではないと思われる。鎌倉に居を構える今でいうところの「三世代同居」の間宮家が、娘の紀子(原節子)の結婚を契機として、祖父母の周吉としげ(菅井一郎と東山千栄子)は大和の本家へ、紀子は夫の矢部(二本柳寛)の転勤先である秋田へ、兄の康一(笠智衆)は東京の大学病院から鎌倉で医院を開業と、それぞれが新しい道を歩み出す。その一家が離散していく将来を際立たせるかのように、カメラはクライマックスの有名な記念撮影の場面で間宮家の人々が意図的に動きを止めるまで、動き続けるのである。

ショートケーキが契機?

 ホームドラマの原型となった小津作品だけに、冒頭の出勤前の慌ただしい朝食の場面をはじめとして食事のシーンは多数登場するが、本作品においては“ハレ”(非日常)としての菓子と“ケ”(日常)としての食卓がそれぞれに明確な役割を与えられ、紀子の縁談を軸に展開する物語と密接に結びついている。

 たとえば、丸の内の貿易会社に勤めるOLの紀子が銀座の千疋屋でショートケーキを買ってきて兄嫁の史子(三宅邦子)とテーブルを囲む二度目の場面。ここでは兄の同僚の矢部が訪ねてきて思わぬご馳走にあやかることになるのだが、紀子と矢部がお互いの縁談について探り合いを演じたり、900円(現代の価格に換算すると約1万円)という値段に腰が引けて食が進まない史子のケーキに矢部が手を出そうとしたり、不意に起き出した子供の目に触れないようにケーキを隠すという大人げない振舞いを演じたりというコミカルな雰囲気を通じて、後に紀子が縁談を断って矢部の元に嫁ぐ契機となる重要な小道具としてショートケーキが使われている。

 つまり、冒頭の朝食やラスト近くの一家でとる最後の夕食等のケの場面が現状を保守する儀式的な色彩を帯びているのに対し、ショートケーキ等のハレの場面は人を新たな運命へと向かわせる「甘い誘惑」として機能しているのである。

アンパンの罠

 小津演出のすごさを感じさせるところは、縁談を巡る周囲の様々な思惑をよそに、紀子本人の意向を一切描かないところにある。それが破られるのは矢部が秋田に赴任する前日、紀子が矢部の家を餞別の品を渡すためと称して訪問し、矢部の母のたみ(杉村春子)と会話する場面である。夢のような話としてあなたのような人が嫁に来てくれたらどんなにいいだろうというたみに対し、紀子は私でよかったらと承諾し、たみを驚かせる。にわかに降ってわいたような僥倖に舞い上がったたみは、「ものは言ってみるものね。ねえ紀子さん、アンパン食べない?」と場違いな呼びかけを発して観客の笑いを誘うのだが、この場面における原節子のただならぬ表情から、たみの一言がなくても紀子がある種の決意をもって自らの決断を表明したはずなのは明白であり、いわば紀子の仕掛けたトラップがアンパンの一語を引き出したとも言えるのである。

お茶漬けの苦い味

 死別した妻との間に幼い娘がいる矢部との結婚話に間宮家の人々は戸惑い、康一などは露骨に反対を表明し、娘に過度の期待を抱いていたしげは嘆息するが、紀子の決意は揺らがない。それを象徴するのが、翌日仕事から帰宅した紀子が独りでお茶漬けの夕食をとる場面である。家族内での孤立が深まる中、まるで「お茶漬けの味」(1952)で小暮実千代に下品な食べ方と言われた佐分利信のように、音を立ててお茶漬けを啜る紀子の姿には、これから起こるであろう様々な困難に立ち向かおうという覚悟が見てとれる。

小津さんは別よ

 親友のアヤ(淡島千景)に矢部を選んだ理由を尋ねられた紀子は「昔から一番良く知っていて、この人なら信頼できると思った」と語っている。矢部は紀子が慕っていた次兄で南方戦線で行方不明になった省二の同級生だったのだ。また冒頭に挙げた砂浜の場面では、断った縁談の相手について「40過ぎてひとりでぶらぶらしている人は信用できない」と本音を述べている。筆者にとっても耳の痛い話だが、生涯独身を貫いた小津は撮影時に原節子に対し、この台詞は「でも小津さんは別よ」と続くんだよと言って笑わせたという逸話が残っている。


作品基本データ

【麦秋】

製作年:1951年
製作会社:松竹大船
カラー/サイズ:モノクロ/スタンダード
上映時間:124分
◆スタッフ
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
美術:浜田辰雄
音楽:伊藤宣二
◆キャスト
菅井一郎(間宮周吉)
東山千栄子(しげ)
笠智衆(康一)
三宅邦子(史子)
原節子(紀子)
高堂国典(茂吉)
淡島千景(田村アヤ)
佐野周二(佐竹宗太郎)
二本柳寛(矢部謙吉)
杉村春子(たみ)

(参考文献:キネマ旬報映画データベース)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。