ありがとうブダペストの人々

いよいよブダペストも最終日。見飽きることがないドナウ川の美しい朝焼けに別れを告げる。東欧と言うと、漠然と、どんよりとした曇り空のイメージを持っていた筆者だったが、今回の旅行は最後まで天候に恵まれ、吸い込まれそうな青空を何度も見ることができた。

ブダペストの朝焼けは見飽きることが無い。
ブダペストの朝焼けは見飽きることが無い。
ブダペストのホテルのモーニング・ビュッフェで見かけた「日式(中国語で「日本式」)調味料のテリヤキソース。
ブダペストのホテルのモーニング・ビュッフェで見かけた「日式(中国語で「日本式」)調味料のテリヤキソース。

東洋人の置き土産の包み

 4つ星ホテルの豪華な朝食を終えた後、コーヒーを飲みながら一服するために通っていた近場のカフェに足を向け、4日間の御礼と今日でブダペストを離れることを伝える。「今度ブダペストに来たときにはまた寄ってくださいね」と手書きの英語でしたためたカードと共に出てきたカフェラテに、ハートマークが一つ増えていた。

 昨日、あの後も散々ビール責めにあったカフェは道を挟んですぐにある。昼だったせいか一昨日と昨日のチーママとは別人で、得体のしれない包みを手にして現れたハンガリー語を解さないアジア人をいぶかしそうに眺めている。

 悪いことにハンガリーのフォリント札は使い果たしており、地元の人しか来ない店だからユーロでビールを頼むわけにもいかない。筆者は窮まった末に、彼女に昨日スマホで撮影した常連さんたちの写真を見せてみた。「あら! ウチの店じゃない」と納得した様子で、折よく来店したハンガリーの若者に通訳してもらい、無事に包みを渡すことができた。

日本から持参したハンガリー語会話集を不思議そうに眺める下町のカフェの仲良し二人組。
日本から持参したハンガリー語会話集を不思議そうに眺める下町のカフェの仲良し二人組。

 彼に両替してもらったフォリントでビールを頼もうとすると、彼女が身振り手振りしながらハンガリー語で何ごとかを話してくる。「これはお店からで料金はいらないそうです」と若者に言われ、昼前のビールをおいしくいただいた。

 今頃、あの店の常連の親爺たちは、あの包みの中身、東洋の国からはるばる届いた「カキノタネ」を不思議そうに眺めながら口にしているに違いない。昨日隣の席で日本から持参したハンガリー語のポケット会話集を不思議そうに眺めていた2人組にも、ドナウ川で獲れた大きな鯉を自慢しに来た老人にも行き渡っているといいのだが。

ウィーン風カフェで待つ

 王宮の入口にある「コロナ・カベハズ」は訪れる観光客で今日も賑わっていた。13時30分きっかりに、このカフェにオーストリアからハンガリー国境を越えて出迎えの車がやって来る予定になっている。ここからブダペスト市街を抜けてF15ルートで高速を南下し、国境のチェックポイントを超えて向かうセルビア第二の都市ノビサドが次の目標地点だ。

 文章でこんな風に書くと、オーストリア/ハンガリー/セルビアを股にかけて、あたかもスパイ小説でも始まりそうな勢いだから、読者は観光客で賑わう東欧のカフェにはいささか場違いな筆者が大きなスーツケースと共に心細げにたたずんでいる実像は忘れていただきたい。

 先に記したように、ハンガリーはオーストリア・ハンガリー二重帝国の時代の影響でウィーンを起点とするカフェ文化を継承しており、豪華な店から庶民的な店まで豊穣なカフェ文化を要する国だ。ヨーロッパの同系の菓子、たとえばオーストリアのザッハトルテは日本人にはかなり甘いそうだし、トルコやギリシャには暴力的に甘い菓子があるとも聞くが、「コロナ・カベハズ」のチョコレートケーキはよくも悪くも“普通”で、日本の喫茶店のケーキセットでこれが出てきても、誰からも不満の声も起きないし支配人を呼ぶほど感動するわけでもないレベルだったと思う。

 ブダペスト王宮の目と鼻の先にあるという場所柄、ひっきりなしに店内に入って来る観光客は筆者がテーブルを一つ占拠しているのを一瞥して、あきらめて店を出ていく。入れ替わり立ち替わりやって来る観光客の冷ややかな視線に耐えている筆者としては、お菓子を味わうどころではなかった。こういう時には悲観的な予測が次から次に筆者の脳裏に浮かんでくる――もしオーストリア人が今日の予定を勘違いして忘れていたら。もし彼が何らかの事故に巻き込まれていたら。もしメルケルが新たな声明を発表して、セルビア国境に難民が殺到していたら……。

大当たりのレモネード

 ルーターを起動させて万全の態勢で待つ筆者のスマホにメールの着信が入った。15分ほど遅れると言う。心中に動揺が走った。今朝カフェで居合わせた若者に両替してもらったフォリントはホテルから山頂まで来るタクシー代で使ってしまい、追加注文できるだけの持ち合わせがない。2日前に「そこまでしなくても……」と不思議そうな顔のエディット女史に頭を下げて「コロナ・カベハズ」の店員に面通しをお願いしておいたおかげで、ちゃんと席は空いていたが、コーヒーとケーキだけで粘る筆者に他の店員と店に空席はないかと覗きに来る観光客の視線が刺さる。誰かと2人で来ているなら話に夢中のフリをして視線を遮ることもできるが、一人でこの視線と闘うのはもう限界だ。店員を呼んでクレジットカードが使えることを確認して、レモネードを頼んだ。

待ち合わせ場所に指定したブダペスト王宮近くのカフェ「コロナ・カベハズ」。フレッシュなレモネードは出色だった。
待ち合わせ場所に指定したブダペスト王宮近くのカフェ「コロナ・カベハズ」。フレッシュなレモネードは出色だった。

 ところが、ガイドブックには書かれていない、このレモネードが当たりだった。コンビニスイーツと大差がないと言ったら言い過ぎだろうが、コーヒーとケーキには特段感じ入ることがなかった筆者だったが、レモンを丸々1個分ホーセズネック(ウィスキーベースのカクテル。レモンの皮を螺旋状に向いて飾る)と言うよりは桂剥きのようにして大胆に入れたレモネードは、フレッシュそのもので甘みも過不足ない。日本では見られないビジュアルも、帰国してからの土産話になりそうだ。

 予定時間を30分過ぎた頃、オーストリア人のショーベルさんが銀色のアウディ・クアトロに乗ってやってきた。やれやれ。大きなスーツケースをトランクに放り込んで、いざ出発。

協力:ハンガリー農務省/ハンガリー政府観光局

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。