「環境ホルモン」問題はどうなった?BPAの評価を巡る世界の動向その1

日本では今のところあまり話題になっていませんが、カナダが哺乳瓶へのポリカーボネートの使用禁止を提案し、米国とカナダで報道が過熱しているビスフェノールAの安全性評価について、これまでの経緯をまとめてみようと思います。「その1」としたのは、米国とカナダでは現在パブリックコメント募集中でまだ結論が出ていないことと、これまでの経緯を紹介するだけで相当な分量になってしまうためです。

 ビスフェノールAは日本でも10年ほど前にいわゆる「環境ホルモン」問題として騒がれたことがあるので、記憶している人も多いのではないでしょうか。当時の報道が理由で、ラップやポリカーボネートの食器や哺乳瓶の使用を止めたという人もいるかもしれません。あれだけの騒動の後、続報があまりないのはどうしたことだろうと思っている人は多いのではないでしょうか。

 報道の世界と違って科学の世界では、問題提起だけしてあとは知らんぷりというわけにはいきませんので、当然その後も研究は続いています。そしてまず2007年1月に欧州食品安全機関(EFSA)が評価文書を発表しました。

○プレスリリース
 29 January 2007 EFSA re-evaluates safety of bisphenol A and sets Tolerable Daily Intake
 その要約

○科学的意見
 29 January 2007 Opinion of the Scientific Panel AFC related to 2,2-BIS(4-HYDROXYPHENYL)PROPANE

 その要約

○FAQ
 29 January 2007 AQ on Bisphenol A
 その要約

 この評価意見は、内分泌攪乱化学物質への懸念が浮上していた最中に行われた02年の評価を更新したものです。02年の時点では実験動物でごく微量のビスフェノールAが生殖器官に影響を与える可能性があるという主張(いわゆる低用量影響)があることから、念のために通常用いられる安全係数100を500に割り増しして暫定耐容一日摂取量(TDI)を設定していました。

 それがその後の研究の結果、いわゆる低用量影響はヒトで起こる可能性はほとんど否定できるという結論に達し、安全係数500を100に戻して暫定TDIを完全TDIとし0.05 mg/kg体重としました。これはビスフェノールAが特別な物質ではなく、通常の毒性評価ができる物質と認めた、ということです。

 このEFSAの評価は英国やドイツの国の機関も承認し、ヨーロッパでの内分泌攪乱物質としてのビスフェノールAにまつわる騒動はこの時点でいったん終息を迎えます。

 一方、米国では国家毒性プログラム(NTP)のヒト生殖リスク評価センター(CERHR)によるヒト生殖影響評価が行われていました。CERHRがビスフェノールAを評価対象物質にしたのが05年で、評価を行う外部専門家委員会が最初の報告書案を発表したのが06年12月、その後何度かのパブリックコメント募集と改定を経て、報告書(November 26, 2007、Expert Panel Report on Bisphenol A、その要約)が提出されたのが07年11月です。

 この外部専門家委員会の報告書を元にNTPが作成したビスフェノールAの評価案(April 14, 2008、DRAFT NTP BRIEF ON BISPHENOL A、その要約)が発表されたのが08年4月18日です。

 ここで問題になったのは、外部専門家委員会が出した報告書ではいわゆる内分泌攪乱化学物質の生殖器系への低用量影響についてはほぼ完全に否定的評価だったのに対して、NTPの評価案では若干低用量影響に検討の余地を与えた、ということです。また外部専門家委員会の報告書では、これまであまり問題とされてこなかったビスフェノールAの神経や行動への影響について動物実験で可能性が示唆されたことを取り上げたということがあります。

 評価対象として選定してから報告書が完成し、評価が出るまで(まだ最終評価は出ていません)ずいぶんと長い時間がかかっています。これまでに出された報告書案やパブリックコメントなどはこのサイト(NTP CERHR、Bisphenol A)に掲載されています。現在募集中の意見についても順次掲載されています。

 このNTPの発表を受けて、規制担当機関である米国FDAは独自に専門委員会を立ち上げて評価を開始しました。5月上旬の時点でのFDAの見解は、EFSAの先の評価と同様、健康への悪影響は想定されず、哺乳瓶やプラスチック製品を使い続けて問題はないというものです。

 またカナダでは08年4月18日に政府がビスフェノールAの評価の概要とその規制案(April 18, 2008、Government of Canada Takes Action on Another Chemical of Concern: Bisphenol A)について同時に発表しました(その概要

 カナダの評価案は米国NTPの外部専門会委員会の報告書とほぼ同じような内容となっており、生殖器系への低用量影響については否定的です。そしてヒトに対して現在の暴露量で健康被害が出るおそれはないとしています(強調しておきますが、世界中でビスフェノールAのヒトに対する有害影響が確認された、あるいは確からしいとしている機関は一つもありません)。

 それにもかかわらず、予防的措置として(いうなれば「安心」のために)哺乳瓶へのポリカーボネート使用禁止などを提案しています。このような規制は世界で初めてのことだとカナダ政府は自慢しています。現在この案は意見募集中で最終決定はされていませんが、カナダのメーカーの中には自主的にポリカーボネート製の哺乳瓶を回収したりするところが出てきています。

 こうした動きに対してオーストラリアとニュージーランドでは極めて簡潔にファクトシートやQ&Aを発表し、安全性について心配する必要はないと消費者に情報提供しています。

○オーストラリア・FSANZ
 April 2008 Bisphenol A(BPA)and food packaging ファクトシート
 その概要

○ニュージーランド・NZFSA
 29 April 2008 Bisphenol A(BPA)in baby bottles Q & A
 その概要

 米国とカナダでの発表を受けて、EFSAは必要であれば先の意見を更新すると声明を発表していますが、特に決定的な新しい情報が出たわけではないので先の意見が変更される可能性は低いと思われます。

 最後に、オーストラリアや米国FDAが日本で行われたビスフェノールAの評価として引用しているのが、独立行政法人産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センターの発表した「ビスフェノールA 詳細リスク評価書」(中西準子プロジェクトリーダー)です。このサイトから日本語で読めます。

 もちろん海外の規制担当機関が参照したのはこの英語版だと思われます。この詳細リスク評価書については中西先生がご自身のホームページで内容について説明しておられますので、ご一読ください。

○330-2006.1.16ビスフェノールAの詳細リスク評価書―生態リスク評価算出手法が新しい―
○378-2007.2.20「速報!欧州連合が、ビスフェノールAの耐用一日許容摂取量の値を変更」

 さて、ここまでとりあえず基礎となる資料を紹介しました。ビスフェノールAの規制がどうなるかは現時点ではまだ決定されたものはありません。各国が結論を出すまで、もうしばらく時間がかかると思います。その後の状況については、またご報告いたします。現時点で言えることは、「世界で最も安全側に軸足を置いて世界で一番厳しい規制を提案した」カナダで、危険だという報道の量が多く、消費者の不安が最も強いようだ、ということです。

 ある北米の母親のコミュニティサイトに、「私は今まで自分の子どもに煮豆の缶詰めばかり食べさせてきて、健康的な食事だと自慢していた。でも缶詰めの内側の塗装にビスフェノールAが使われていると聞いて、私は子どもに毒物を与えていたのだと絶望的な気分になった」という書き込みがありました。そもそもマメの缶詰ばかり食べるのが健康的だというのもおかしいのですが、一般の人たちがどう受け取っているのかは想像できるのではないでしょうか。安心のための対策がかえって不安を誘発している、という皮肉な状況になっているように見えます。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

アバター画像
About 畝山智香子 30 Articles
国立医薬品食品衛生研究所安全情報部第三室長 うねやま・ちかこ 宮城県生まれ。東北大学大学院薬学研究科博士課程前期二年修了。薬学博士。専門は薬理学、生化学。「食品安全情報blog」で食品の安全や健康などに関してさまざまな情報を発信している。著書に「ほんとうの『食の安全』を考える―ゼロリスクという幻想」(化学同人)。