VI 女性バーテンダーのさきがけ(1)欧米編

エイダ・コールマン(「VINTAGE SPIRITS AND FORGOTTEN COCKTAILS」より)

19世紀半ばまで、旅人のための宿泊施設は、なんらかの目的を持った旅行の便宜のためにあった。しかし19世紀後半以降、欧米には富裕層のレジャーに利用目的を絞った高級ホテルが相次いで登場する。新大陸の新しい飲み物だったカクテルは、その中で新しい発達を遂げた。そしてカクテル史上に数々の伝説を残したサヴォイ・ホテルに、世界で最も有名な女性バーテンダーが現れる。

富裕層のためのホテルが出来るまで

「ロンドンのサヴォイ・ホテルを知っているか?」……バーテンダーにそう尋ねたら、怪訝な表情でサヴォイのカクテルブックについて話し始めるに違いない。あるいは、いささか憤然としてそのカクテルブックの著者であり、サヴォイのチーフ・バーテンダーを勤めていたハリー・クラドックについて語り始めるかもしれない。

 だが、拙稿ではネットで検索すれば山ほど出てくるその類の話を繰り返すつもりはない。今回のテーマに直接言及する前に、かなり遠回りになることを読者にはお許しいただいて、まずは世界初の女性バーテンダー誕生までの周辺事情から説明していくことにしよう。

 そもそも19世紀の半ばころまで、海外旅行とは探検家や貿易商人などの限られた職業の人々が行うものであった。その彼らが不案内な土地に来たとき、どうにか食える温かいこと“だけ”がとりえの食事と、追いはぎに会わないで済むというだけの硬い寝床を得る――当時の宿泊施設とは、そのように彼らがビジネスや探検といった本来の目的を果たすための“手段”の一つに過ぎなかった。

 ところが、欧州で起きた産業革命とそれに引き続くアメリカのゴールド・ラッシュで一挙に増加した富裕な市民層が、新たな娯楽としての海外旅行に注目したことが、それまで目的達成の“手段”に過ぎなかった宿の状況を一変させる。

 ありきたりの娯楽に飽きた彼らは、中東やアジアに巨大な豪華客船で乗り付け、行った先の事情などあずかり知らぬかのように分厚いビフテキを注文し、清潔なシーツと柔らかいベッドを要求した。現地の人が目をむくような大金を払うことに躊躇しない代わりに、彼らは香り高いコーヒーで目覚めることを「しかるべき代価を支払った権利」として文化の異なる異国の人々に求めたのである。

 こうして、旅人が夜露をしのぎ、いまいましい食事で飢えを満たすばかりだった木賃宿は豪勢なホテルへと様変わりし、やがてホテル自体が高い付加価値を持つようになっていく。興行家のドイリー・カート(Richard D’Oyly Carte)がオペラを食事や宿泊とセットにしようという発想で1889年に建てたロンドンのサヴォイ(The Savoy)は、そのような時代の中で誕生したホテルだった。

エイダ・コールマン

 目が飛び出るほど高額な料金の代償として一流ホテルで取り扱うものは肉や野菜からシーツ1枚に至るまで現地で望み得る最高レベルのものが保証され、ホテルでサービスに従事する従業員の質も同様に最高のレベルが要求された。先ほどの例でいくなら、ハリー・クラドックという一人の名バーテンダーがサヴォイのバーのクオリティを保証すると同時に、サヴォイがバーテンダーを含む従業員のサービスの質を保証していたことになる。つまり、サヴォイやウォルドルフ・アストリア(The Waldorf-Astoria)、当時の日本なら横浜グランドホテルや帝国ホテルで働いていることが、そのまま従業員個人個人が提供するサービスの質を保証していたことになる。

 筆者が一見本題とは無縁に思える豪華ホテルの成立の経緯を長々と書き連ねるのは、バーテンダーの資格試験も専門学校もなかった草創期に何をもって「世界初」とするかという、一見簡単そうで実は面倒な問題を解決するため、ということに尽きる。

 カクテルは単に酒と酒を混ぜればそう呼べるわけではないし、酒を何かと混ぜた人がすべて「バーテンダー」と呼ばれるわけでもない。もしこんな簡単な定義で通るなら、「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんに水増しした日本酒を出した一膳飯屋の主人が日本のバーテンダーの起源を主張できることになってしまうし、松脂を加えたワイン(Retsina/レッツィーナ。意外とうまい)を作ったギリシャ人や、ワインに海水を加えて飲んだ古代ローマ人が世界初のバーテンダーということになりかねなくなり、収拾がつかなくなってしまうのだ。

 話を元に戻そう。もともとは大当たりしたサヴォイ・オペラを鑑賞するために劇場にやってくる富裕層に、寝食でも「夢のような時間」を楽しんでもらおうとドイリー・カートが提供した “夢のような娯楽”の一つが、新大陸アメリカの飲み物として欧米で脚光を浴び始めたカクテルをホテルの酒場で提供することだった。つまりサヴォイの「アメリカン・バー」は単純に「米国風酒場」という意味ではなく、サヴォイ創業(1889年)時の初代チーフバーテンダー、フランク・ウェルス(Frank Wells)の時代からカクテルありきの酒場だったことになる。

 初代英国バーテンダー協会会長を務め、あのモダニスムの粋を極めた「サヴォイ・カクテルブック」(The Savoy Cocktail Book)を著わしたハリー・クラドックはあまりにも有名だが、サヴォイで初めてシェーカーを振ったのは彼ではない。さらに言えば彼がチーフになる前、彼の上司としてサヴォイのアメリカンバーのチーフを務めていたバーテンダーが、実は女性だったと言えば多くの読者が驚かれるのではないだろうか。

エイダ・コールマン(「VINTAGE SPIRITS AND FORGOTTEN COCKTAILS」より)

 彼女の名前をエイダ・コールマン(Ada coleman/通称コリー=Coley)という。

 彼女は、サヴォイがアメリカン・バーと同様に“夢の空間”として提供していたゴルフクラブで働く父親から、「手に職を持つように」と子供のころから教えられていた。24歳の時、現在も2カ月先まで予約が埋まっているアフタヌーン・ティーで有名な老舗クラリッジ・ホテル(Claridge Hotel)でバーテンダー修業を始める。

 当時、オペラが次々に大当たりして飛ぶ鳥を落とす勢いだったドイリー・カートが、サヴォイの他に所有していたクラリッジで働く彼女に目を留め、彼女をサヴォイのチーフ・バーテンダーとして迎えたのが1899年のことだった。

 サヴォイの二代目チーフ・バーテンダーとなった彼女は、チャーリー・チャップリンやマレーネ・ディートリッヒ、マーク・トウェインといったセレブたちに愛された。喜劇役者チャールズ・ホートリーの「何かシャキッとするものを作ってくれ」という注文で作ったハンキーパンキー(Hanky-Panky)カクテルはサヴォイのカクテルブックにも掲載されている。

 エイダ・コールマンは、文字通り世界で最も有名な女性バーテンダーであり、サヴォイの長い歴史の中で唯一の女性バーテンダーでもあった。

日本で最初の女性バーテンダーは

 さて、戦前の日本に話を戻そう。エイダ・コールマンがサヴォイでチーフ・バーテンダーを勤めていた1903年7月から、後任のハリー・クラドックにチーフの席を渡した1924年12月は、日本でいうと明治36年から大正13年ということになる。

 彼女の例を援用すれば、この時期に日本で一流とされていた横浜グランドホテルか帝国ホテルのバーテンダーに女性の名前が見つかれば、その人を「日本最初の女性バーテンダー」と言えることになる。果たしてどちらかのホテルで女性がシェーカーを振っていた事実が見つかるだろうか?


HANKY-PANKY Cocktail

“The Savoy Cocktail Book”より

イタリアン・ヴェルモット 45
ドライジン 45
フェルネット・ブランカ 2ダッシュ
シェークしてカクテルグラス。オレンジピールをトップに。

筆者注:ここは上掲書中の写真の色から判断してヴェルモット(赤)で。また通常の2オンス見当で作る場合は30/30/1ダッシュ)

※エイダ・コールマンを初代チーフ・バーテンダーとする説があるが、最近の欧米のカクテル研究レポートによればフランク・ウェルスという人物がコリーの前にチーフを務めていたという見解が有力となっている。

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Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。