宿泊客を守り抜いた英雄たち

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今回はシリーズ「スポーツ映画の食」をいったんお休みし、現在公開中の「ホテル・ムンバイ」を取り上げる。

ムンバイ同時多発テロとタージマハル・ホテル

 2008年11月26日夜、インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)でイスラム過激派とみられる十数人のテロリストが駅、カフェ、ホテル、映画館、病院、ユダヤ教施設等を機関銃や手榴弾で無差別に攻撃。ホテルをはじめとする複数の施設に人質をとって立て籠もり、人質を殺害したり放火したりした。地元の警察では対応しきれず、ムンバイから1300km離れたニューデリーにいる特殊部隊が到着してテロリストを完全に制圧したのは11月29日朝のことだった。

 死者174人、負傷者239人を出したこのテロで実行犯グループをマインド&リモートコントロールした首謀者は未だに捕まっていない。

「インドの9.11」とも称されるこのテロを描いた作品としては「パレス・ダウン」(2015)や「ジェノサイド・ホテル」(2017)があるが、本作は生存者へのインタビューと綿密な調査を土台とした決定版とも言えるもので、テロの標的の一つとなった高級ホテル「タージマハル・ホテル」を舞台に、極限状況下でのホテルスタッフ、宿泊客、テロリストらの人間模様を描いた群像劇である。

 タージマハル・ホテルはインド最大の財閥タタ・グループの創始者ジャムシェトジー・タタが1903年に開業。西洋建築とインド伝統の様式を融合させた地上22階の美しい外観を持つ。部屋数565室、スイート数46室を擁し、ムンバイを訪れる世界中のVIPが利用するインドを代表する高級ホテルである。

料理の腕だけではない“リーダー力”

ムンバイ同時多発テロで標的の一つになったタージマハル・ホテル。
ムンバイ同時多発テロで標的の一つになったタージマハル・ホテル。

 本作の主な登場人物は、ムンバイのダウンタウンで臨月の妻と幼い娘と暮らしタージマハル・ホテルでウェイターとして働くアルジュン(デヴ・パテル)、生まれたばかりの息子キャメロンを連れて新婚旅行に訪れたアメリカ人建築家デヴィッド(アーミー・ハマー)とその妻でイランの富豪の娘ザーラ(ナザニン・ボニアディ)、ベビーシッターのサリー(ティルダ・コブハム・ハーヴェイ)、曲者のロシア人実業家ワシリー(ジェイソン・アイザックス)と多彩であるが、当「スクリーンの餐」としては、それら架空の人物を中心的に構成される中で唯一実在の人物であるタージマハル・ホテルの総料理長だったヘマント・オベロイ(アヌパム・カー)に注目したい。

 オベロイはインド政府観光局から「インド最高のシェフ」の称号を与えられた一流シェフで、ムンバイ同時多発テロの4年後の2012年にはホテルオークラ東京の「インド料理フェア」に招聘され来日している()。その料理の腕は折り紙付きだが、それだけでは一国を代表するようなホテルの総料理長は務まらない。スタッフを管理・指導し、一致団結して集団を引っ張っていく“リーダー力”が必要だ。そしてオベロイのリーダー力は、いかなる運命のいたずらか、ムンバイ同時多発テロの際に最も発揮されたのである。

命を賭けて、お客様のために

 テロ発生当日の朝、仕事用の靴を家に忘れてきたアルジュンをオベロイは帰そうとするが、生まれてくる子供のために働かせて下さいと懇願するアルジュンに予備の靴を使えとチャンスを与えたのは、厳しい中にも追い詰め過ぎないアメとムチの部下操縦法だろう。ただし、多額のチップがもらえるワシリーのスイートルームでのパーティーの世話係には、ワインの当たり年をすらすらとお客に説明できるスキルを持つアルジュンをあえて外し、ワシリーお気に入りのコニャック「ヴァンデジョン」の名前すら発音できない同僚を指名する等、ペナルティーを与えることも忘れない。しかし、これがテロの犠牲になるかどうかの運命の別れ道だったとは、この時点では誰も予測がつかなかったのである。

 そしてテロ発生時、1階のシャミアナ・レストランで給仕中に銃声を聞いたアルジュンは、咄嗟にすべての照明を落としてお客を守ろうとする。吹き抜けのフロントロビーで阿鼻叫喚の地獄絵図が展開する中、アルジュンから携帯で連絡を受けたオベロイは慎重に避難方法を検討した上で、テロリストにまだ知られていない通用階段を通って、窓がなくドアが頑丈で容易に侵入できない6階のチェンバース・ラウンジにお客を誘導し警察の救助を待つ決断をする。オベロイはスタッフを集めてこう告げる。

「強制はしない。もし帰りたければいま帰れ。家族が待っている者もいるだろう。帰っても恥ではない。」

 それに対しこのホテルで35年勤めてきたというボーイは「ここが私の家です」と言い、若いコックも「お客様は神様です」とホテルに残ってお客を守ることを選ぶ。こうしてスタッフ全員の意志を確認した上で「ついて来い」と行動を開始する人心掌握術はまさにリーダーのものである。

 デヴィッド、ザーラ、ワシリーらレストランのお客をチェンバース・ラウンジに誘導してからも、スタッフはテロの恐怖にパニックを起こしそうになるお客の不安を拭うために奔走する。オベロイはすぐに脱出することを主張するワシリーらを可能な限り説得して押しとどめ、アルジュンは彼のパグリー(ターバン)とヒゲを怖がるイギリス人の老婦人に対しては、自身の信仰と習慣を超える態度を示して、老婦人を落ち着かせる。

 人種や宗教の異なる人々が集うホテルが舞台だけに、食べ物のカルチャーギャップも露呈する。たとえば、インドにはヒンドゥー教徒が多く牛肉食がタブー視される傾向がある。また、このテロの犯人はイスラム過激派と見られているが、イスラム教徒は豚肉に触れることを禁じている。そうした食の禁忌を背景とした印象的な場面がいくつかあるのだが、それらは、異質な者を認め合わず、相手を否定することがテロや戦争といった紛争に繋がるのだということを、本作は暗に指摘していると感じさせるだろう。

 終盤、特殊部隊の到着を目前にしたテロリストたちがホテルに火を放ち、宿泊客らは旧館パレス棟最上階にあるチェンバース・ラウンジからの脱出を余儀なくされる。その彼らをホテルスタッフたちはいかに守ったか。それ以上の説明は差し控えるが、タージマハル・ホテルでは500人以上がテロに巻き込まれながらも死者は32名であった。しかも、死者の半数はホテルスタッフだったという事実だけを示しておく。無私無欲でお客を守るために命を賭けた名もなき英雄たちの勇気は称賛されてしかるべきだろう。

 また、オベロイと彼のチームが事件の3週間後に、未だ傷跡の残るホテルの中でレストランを再オープンしたことは、テロに対する不屈の意志を示したと言える。

※参考文献
「インド最高のシェフ」が来日 ホテルオークラ東京で絶品料理を堪能
https://bg-mania.jp/2012/07/29063073.html

【ホテル・ムンバイ】

公式サイト
https://gaga.ne.jp/hotelmumbai/
作品基本データ
原題:HOTEL MUMBAI
製作国:オーストラリア、インド、アメリカ
製作年:2018年
公開年月日:2019年9月27日
上映時間:123分
製作会社:サンダー・ロード・ピクチャーズ
配給:ギャガ
カラー/サイズ:カラー/シネマ・スコープ(1:2.35)
スタッフ
監督:アンソニー・マラス
脚本:アンソニー・マラス、ジョン・コリー
製作総指揮:ジョン・コリー
製作:ベイジル・イヴァニク
編集:アンソニー・マラス
キャスト
アルジュン:デヴ・パテル
デヴィッド:アーミー・ハマー
ザーラ:ナザニン・ボニアディ
サリー:ティルダ・コブハム・ハーヴェイ
オベロイ料理長:アヌパム・カー
ワシリー:ジェイソン・アイザックス

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。