新しい流通と新しい消費を正しく受け止めた

味の素特別顧問 歌田勝弘さん(3)

【味の素特別顧問歌田勝弘さんへのインタビュー】味の素株式会社(以下、味の素社)第7代社長(1981~1989年)を務めた歌田勝弘氏に味の素社の歩みを聞き、永続するブランドと企業活動の秘訣を探った。

第3回は、ビジネスの枠組みが変わり、消費のスタイルが変わった時代に、味の素社が営業と商品開発でどのような活動を行ったかを聞いた。

インタビューでは、編集部からの簡単な質問に対して、歌田氏は詳細な内容を一息に話されたため、聞き書きの形で記した(カコミ部分は齋藤)。

新しい営業は原点に帰ることでもあった

創業者の長男・三代目鈴木三郎助は後に「営業の神様」と呼ばれるようになる敏腕を発揮したが、その仕事の基本は商品が販売・使用される現場に入り込むことだった。このスタイルが、流通革命時代に生きることになった。

「営業の神様」の営業スタイル

味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏
味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏

 さて、「味の素」が世に出て間もない頃に、創業者二代目鈴木三郎助さんは長男を朝鮮や台湾に向かわせたとお話ししましたが、その方、三代目鈴木三郎助さんのことをお話ししましょう。

 大正6(1917)年に、今日の味の素社の前身となる鈴木商店という会社を設立しましたが、昭和15(1940)年に三代目鈴木三郎助さんがその社長に就任しました。戦後、私がお会いしたときは会長でしたが、「商売の神様」「営業の神様」と呼ばれていました。

 私は、三代目三郎助さんの地方出張へ何度か同行したことがあります。そうした折、地方の町で、「あのそば屋へ寄ろう」ということがあるのです。私は、「こんな偉い人がなぜわざわざその店と言って入って行くのだろう」と思ったものです。ところが、店へうかがうと、その理由がわかるのです。自分が若い頃に営業で歩いていて、どこへ行っても相手にされなかった頃、そのそば屋さんがその地域で最初に「味の素」を使ってくれたということです。三代目三郎助さんは、いつまでもそれを忘れない。それで、訪ねて行って、仏さんにお線香を上げて来るんだとか、そういうお付き合いを続けている。私はすごいなと思ったものです。

流通革命で営業の行動が変わった

 味の素社は営業に強い――その自負はありました。社員はみんな、味の素社は営業ではいちばん進んでいる会社だと思っていたものです。ところが、昭和35(1960)年前後から、全く新しい営業を学び始めることになります。

 味の素社の子会社に日本コンソメという会社がありましたが、これが昭和38(1963)年にアメリカのコーン・プロダクツ・インターナショナル(以下CPC)との合弁会社、日本食品工業(現クノール食品株式会社)となり、翌年から「クノールスープ」を売り出しました。このとき、CPCのセールス担当者が来日して、指導をしてくれたのです。

 それで、CPCの人といっしょに行動することがあるのですが、彼らは私たちが長年やってきたこととは全く違うことを教えてくれるのです。

 まず、彼らは小売店へ行くのです。折しも、日本ではダイエーをはじめとするスーパーマーケットチェーンが出始めて、いわゆる流通革命が始まった頃でした。そうしたスーパーマーケットの店舗の売場へ行って、陳列している商品を見るわけです。そして、陳列が崩れていると自分で直す。棚に並んでいる商品をなるべく前に出してきれいに並べる(前進陳列)とか、あるいはハタキを持って行って、ほこりをはたいて来るとか、そこまでやるわけです。

 当時、これには驚きました。というのは、それまでの私たちの常識では、メーカーの営業が行く先は卸です。メーカーにとって、直接商品を買ってもらう特約店は第一次卸でした。その第一次卸が第二次卸に売り、第二次卸が小売店に売る。ですから、小売店に対して何かするというのは卸の仕事であり、メーカーはそのためにちゃんと販売手数料を払っているんじゃないかと。私たちが出向くのは問屋まで、そう思っていたのです。

 ところが、CPCの人は、メーカーこそ最も消費者に近いところへ行くべきだというのです。

 さらに、私が営業一課の課長のときに、販売促進課という別働隊も作りました。ここでは、販売促進活動をする婦人販売促進員という人を採用して、小売店を巡回してもらった。そうして小売店の陳列を直して来てもらいますが、それだけではなくて、小売店の人といろいろ対話をしてお話を聞いて来なさいというわけです。そうして得た小売店の情報を、営業で使うと。

 こうした専門の部署を作って販売現場の情報を集める活動も、今でこそ各社やっていることですが、日本の食品業界では味の素社が最初だったと記憶しています。これを進める際も、CPCの人がより深く教えてくれたのです。

 その後、先ほど申し上げた広報室が出来たわけですが、広報室が「ツー・ウェイ・コミュニケーション」を掲げ、こちらから伝えるだけでなく、消費者と対話し、またジャーナリストとも対話し、社会からも情報を得るということに力を入れた下地は、この頃に出来たと言えますし、さらにその前、三代目三郎助さんの若い頃の、小さなお店を回る地道な営業活動も、素地であったと言えるでしょう。

流通革命のなかの営業のジレンマ

流通革命で台頭したスーパーマーケットチェーンは、メーカーにとっては売価を下げる歓迎できない相手であり、またもし容認すれば既存取引先からの突き上げも受けることにもなる。そこで歌田氏はじめ営業はスーパーマーケットにアンチの姿勢を取ることになったが、外ならぬ「営業の神様」が別の号令を発した。

突然矛を収めることになった「ダイエー」との攻防

味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏
味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏

 流通革命がメーカーの営業にとっても関心事となったのは、昭和37(1962)~38(1963)年頃のことです。私たちも、流通革命論に関するセミナーなどにずいぶん通ったものです。林周二、田島義博といった流通革命学者の話を、小売業の人も、私たちのようにメーカーの人も聞きに行って、流通革命は本物か、これからどうなるのかと、勉強したものです。

 また、それが本格化した昭和40年代(1965年~)、高度成長の頃は、もちろん流通も変わっていったし、消費者の動向も変わっていった時代です。この時代の初めに販売の現場や消費者の情報を取る体制を作ったことは重要でした。

 とは言え、流通革命への対応は簡単なことではありませんでした。というのは、営業がジレンマに陥るのです。躍進中のスーパーマーケットは無視できない。しかし、スーパーマーケットに卸せば安売りをされてしまう。しかも、メーカーはそのことで一般小売店からも攻撃されてしまう。

 昭和41(1961)年には、「主婦の店ダイエー」三宮店(神戸・三宮)が大拡張して日本最大のスーパーマーケットになりました。今正直に言えば、これには困りまして、「妙なものが出来たなぁ」と思ったものです。というのは、三宮には私たちの大のお得意先の百貨店がある。そこをはじめ周辺の小売店が「ダイエー」の大型化にカッカと怒ったわけです。そして、「『ダイエー』の安売りを認めるなら、自分の店から『味の素』を引っ込めるぞ」と、なんとかせいと言ってくるわけです。

 そのなんとかせいというのが、なかなかうまく行かない。

 その後「ダイエー」は東京にも進出して、同じように安売りを始めます。

 私はあるとき、当時10万円ぐらいの現金を持って、「ダイエー」に出向きました。「売っていただくのはありがたいけれど、安売りをやめてください」と頼みに行ったのです。「やめてくれないなら、ここにある味の素社の商品を全部買わせていただきます」と言って、その現金を見せてと。そんなこともありました。

 ところが、営業がそうしてなんとか「ダイエー」の安売りをやめてもらおうとしているさなか、三代目鈴木三郎助会長が、突然「中内功(ダイエー創業者)というのが面白そうなことをやっているが、自分は会いに行く」と言い出した。まだ中内さんが日本中にその名を知られるという人になる前の頃です。そして、帰って来るなり、「会って来たけれど、彼の考えていることは非常に面白い。なんとか品物を出してやれ」という命令を出した。

 こちらはなんとか止めようと思っていたのに、大会長であり「営業の神様」と言われた人が、そういうことを言うので困っちゃいました。

 けれども、後年、私が経団連の副会長になったときに、中内さんと一緒だったのですが、中内さんは鈴木会長の判断を最後まで非常に感謝されていました。

消費の成熟化・多様化と洋風化に乗り遅れるな

流通革命では、昔からの商法が通用しなくなり、撤退を余儀なくされる企業・業界も少なくなかった。「カルピス」もそこで苦戦した企業だったが、復活は新しい消費スタイルの提案で成し遂げられた。一方、味の素社も、「味の素」一辺倒で押すのではなく、うま味の提案法を変えることを学んだ。

消費の変化に対応して復活した「カルピス」

味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏
味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏

 流通革命では、古くからの優良企業もずいぶん苦労しました。

 たとえば、「カルピス」は、「味の素」と同じく戦前からの有名ブランドで、丁寧に扱って売れている商品でした。

 私も営業ではカルピス株式会社(以下カルピス社)の人とよく会い、情報交換などして親しくお付き合いしたものです。私は、カルピス社はいい会社だなと感心していました。というのは、「カルピス」は基本的に夏場に売れる商品です。それを、2月の終わりにサイトの長い手形を取って一気に出荷する。その後は小売店で販売促進をする。「カルピス」という強い商品一品に経営資源を集中して、しかも無借金経営です。

 ところが、流通革命のなかで、小売店の「カルピス」の扱い方が変わっていくわけです(編集部註:在庫の圧縮、安売りなど)。私が味の素社の社長のとき、カルピス社の営業で親しかった人も社長になって、その人が私どものところへなんとか助けてくれと相談に来たのです。

味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏
味の素株式会社特別顧問歌田勝弘氏

 それで、最初、味の素社から出向者を出して、指導などをしました。それでもなかなか立て直しがうまくいかなくて、じゃあ資本を出そう、社長をこっちから出そうという話になった。

 そこでヒットを出したのです。「カルピスウォーター」を売り出したところ、これが大当たりして、黒字化できた。

「カルピス」はもともと濃縮タイプで、消費者が自分で水で割って飲むものです。創業の大正時代からそれでやってきた。他に、ソーダで割った「カルピスソーダ」というものは作った。実は、水で割ったものを商品化する研究もしてはいたようなのですが、液が分離してしまって商品にできずにいたのです。また、やはり「カルピス」は自分で好きなように割って飲むものだというイメージにもとらわれて、あえて熱心に研究を進めなかったのでしょう。

 しかし、それをやろうと号令して研究を進めたら、分離しない技術が出来たのです。これは、作っても作っても足りないぐらい売れた。

市場の多様化に対応した「ほんだし」

発売当時の「味の素KKのほんだし」(1970年)
発売当時の「味の素KKのほんだし」(1970年)/図版引用:「味の素グループの百年――新価値創造と開拓者精神」(2009年、味の素株式会社)より

 流通革命の時期に起こったことの別な側面は、消費の成熟化・多様化と、洋風化です。この2つへの対応が、当時の私たちにとっての大きなテーマでした。そのために、販売・消費の現場の動きをいかに察知して経営に取り込むかは大きな課題でした。同じ食品業界でも、それができたかどうかで優劣が決まったのです。

 その新しい消費への対応の初期の例として、「ほんだし」が世に出るまでのお話をしましょう。これはちょっと私の自慢話になってしまいますが。

 私は営業一課の課長の後、東京支店次長になって東京の営業をやり、それから大阪支店長になって大阪へ移り、昭和45(1970)年に本店に戻って、本店業務部長になりました(翌1971年取締役本店業務部長に昇格)。業務部というのは、「本社の業務」という意味で、具体的にはマーケティングあるいはマーチャンダイジングの元締めということになります。今で言うと家庭用事業部に当たります。

「ほんだし」を作ったのはこの業務部長のときですが、発端は大阪支店長時代に遡ります。

 山口に本社のあるシマヤさんという会社があります。そのシマヤさんが、鰹節とグルタミン酸ソーダを合わせて、「シマヤだしの素」というのを中国地方で売り出した(1964年)。私も買って来て味見してみました。これはなかなか面白いものだと思ったものです。

 それがどうも売れ出しているというので、これは捨ててはおけない、わが社もやるべきだと提言したのですが、なかなか取り上げてもらえませんでした。

 当時大阪勤務ですが、出張で東京へ来たときには、留守をしている私の実家で年取った母親が料理をして食べさせてくれました。それで、あるとき台所を見たら、関西で気になっていた「シマヤだしの素」があるのです。これにはびっくりしました。そして、ますますわが社もやるべきとの信念を深めたわけです。

 その後、本店業務部長を命ぜられて東京に戻るや、私はただちにそういうものを作ると宣言して、半年で作り上げるプロジェクトを始動させました。上司からはだいぶいろいろ言われましたが、自分はどうしてもこれをやりたいと言ってやらせてもらったのです。

 しかし、いざ動き出してみると、実は研究所でもある程度の研究はしていたことがわかってびっくりしました。やってはいたけれど、全社的なマーチャンダイジングでそれを認めてこなかったわけです。そういう基礎はあったわけですが、プロジェクトのメンバーは以後連日夜中までかけて進めてくれて、おかげで本当に半年で仕上げることができました。

 そして、新たに「ほんだし」というブランドを作って、昭和45(1970)年11月に、まず関東地区で売り出し、翌春には全国発売に踏み切りました。

《つづく》

歌田勝弘(うただ・かつひろ)

1925年生まれ。1947年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年味の素株式会社入社。1971年取締役本店業務部長、1973年常務取締役、1975年専務取締役、1979年取締役副社長、1981年同社代表取締役社長就任。1989年名誉会長。現在は特別顧問。1990~1995年経団連副会長。1995~1997年同評議委員会副議長、現在顧問。1999年日本バイオ産業人会議世話人代表を務め、日本のバイオテクノロジー振興に尽力。著書に「バイオ産業革命――21世紀、生活と社会が激変する」(2001年、学生社)。

(取材協力:NPO法人くらしとバイオプラザ21


●シリーズ第1回へ →

齋藤訓之
About 齋藤訓之 302 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所客員研究員。昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。日本フードサービス学会会員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。東京栄養食糧専門学校非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →