洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(12) 2012年9月26日 石倉一雄 サヴォイ版「ミカド・カクテル」の再現の後、筆者はたまたま立ち寄った横浜中華街の店で、あっと驚く発見をした。サヴォイ版「ミカド・カクテル」の味と類似する酒を見つけたのだ。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(11) 2012年9月19日 石倉一雄 90年代後半にシアトル系コーヒーが相次いで上陸したことが、思わぬ形で「ジャパニーズ・カクテル」の味の秘密に迫るきっかけをもたらした。その味の決め手の一つとなるオルゲート・シロップが国内で入手可能になったためだ。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(10) 2012年9月12日 石倉一雄 日本から万延元年遣米使節を迎えたニューヨークも、やはりサムライたちの話でもちきりだった。そのさなかに、J.トーマスは「ジャパニーズ・カクテル」を創出したはずだ。しかし、なぜその味になったのかの解明には、別な検証が必要だ。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(9) 2012年9月5日 石倉一雄 J.トーマスの事績をたどると、彼がサンフランシスコにいたこと、バーテンダーの仕事を欧米に広めたことなどがわかる。そして、万延元年遣米使節がニューヨークに到達したとき、彼のバーはサムライたちの宿泊先の目と鼻の先にあった。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(8) 2012年8月29日 石倉一雄 万延元年遣米使節団は、予想外の“立石斧次郎(トミー)人気”を巻き起こしながら、ついにニューヨークにたどり着く。その空前の日本ブームの中心とも言える、使節団宿泊地のすぐそばに、実はJ.トーマスのバーはあったのだ。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(7) 2012年8月22日 石倉一雄 立石斧次郎はトミーと呼ばれて一躍人気者になった。新聞は彼のお茶目な様子を書き立て、人々は正使も副使もそっちのけで一目彼を見ようと集まった。この“トミー旋風”が、「ジャパニーズ・カクテル」が創案される下地となるのである。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(6) 2012年8月15日 石倉一雄 アメリカに上陸した万延元年遣米使節一行は、外国にあなどられまいと尊大にふるまう。迎えるアメリカ政府当局とメディアは、ある思惑から日本を丁重に扱い持ち上げる。集まった群衆の中を、使節団七十余名がこわばった表情のまま厳かに進む。が、その緊張を一気に解いてなごませてしまったのが、16歳の立石斧次郎教之だった。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(5) 2012年8月8日 石倉一雄 日米修好通商条約批准のため、幕府は遣米使節団を派遣する。このとき、幕府はアメリカが裏切りを働かないかを疑い、アメリカは幕府の本気度を疑っていた。そんな当局の心配事を知ってか知らずか、ある侍がこの機会に渡米したいと言い出す。まだ16歳の立石斧次郎教之という少年だった。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(4) 2012年8月1日 石倉一雄 「ジャパニーズ・カクテル」が「ミカド」の別名で呼ばれるようになった経緯は前回まででわかった。では、そもそもなぜアメリカで「ジャパニーズ・カクテル」が考案されたのか。それを解くカギは、黒船来航の頃の日米の往来にある。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(3) 2012年7月25日 石倉一雄 オペレッタ「ミカドあるいはティティプーの街」は、実際の日本とはほど遠い内容だが、これは120年前の欧米で空前の大ヒットとなり、日本ブームを起こした。日本と言えばミカドという言葉が使われるようになったきっかけでもある。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(2) 2012年7月18日 石倉一雄 「ジャパニーズ・カクテル」はアメリカ発祥だが、「ミカド」の別名が付けられたのはイギリスでのことだ。場所はもちろん、サヴォイ・ホテル。サヴォイで上演されて大ヒットしたオペレッタ「ミカドあるいはティティプーの街」が、その由来となる。
洋酒文化の歴史的考察 VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(1) 2012年7月11日 石倉一雄 海外では飲まれるが、日本ではほとんど知られていないカクテルがある。その名も「ジャパニーズ・カクテル」別名「ミカド」。実はこのカクテルこそは、国名がカクテル名になった最初の例でもある。
洋酒文化の歴史的考察 VII 横浜・カクテルことはじめ(5)ヴァレーホ・ジョーを呼んだ男 2012年7月4日 石倉一雄 アメリカ、ヴァレーホから来て、日本で初めてプロのバーテンディングを行ったバーテンダー。しかし彼は、なぜ経営者の異なる2つのホテルでかけもち営業を行ったのか。それを解くカギは、当時の通信事情と、もう一人のイギリス人が握っていた。
洋酒文化の歴史的考察 VII 横浜・カクテルことはじめ(4)明治7年横浜のフレア・バーテンディング 2012年6月27日 石倉一雄 日本で初めてカクテルが提供された様子は、当時の英字紙が伝えている。このバーテンダー、ヴァレーホ・ジョーを描いた漫画を見ると、驚くべきことに、日本初のカクテルは、フレア・バーテンディングで提供されたことがわかる。ただ、このバーテンダーを巡っては、一つ解けない謎が残る。
洋酒文化の歴史的考察 VII 横浜・カクテルことはじめ(3)明治7年横浜のブルー・ブレイザー 2012年6月20日 石倉一雄 パーヴィスはまず、自らカクテルの調製に乗り出した。彼を描いた英字紙の漫画とレシピを見ると、パーヴィスが取り組んだカクテルがブルー・ブレイザーであったことがわかる。しかし、結局それはうまく行かない。しかし、彼が断念した直後、アメリカからプロのバーテンダーが来日する。