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メタノールという非関税障壁

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セルビアの果樹園の悩みの種は夜になると森からやって来る動物たちだった。多少の柵など簡単に飛び越えてしまう彼らの悪戯を防ぐためにこちらの果樹園ではネットを張っていたが、翌日うかがった果樹園ではリンゴの木の根元にプラスチックの網状シールドが張ってあった。やって来る動物の種類を尋ねるとショーベルさんは「ウサギと、ウサギと……バンビを防ぐためだ」と教えてくれた。

のどかな風景は農業国セルビアの風物詩だ。

のどかな風景は農業国セルビアの風物詩だ。

 バンビ! 鹿は英語ではDeerだが、これは筆者にとっても単複同形という中学時代の参考書でしかお目にかかったことも使ったこともない英単語だ。

 今回筆者のセルビア視察を案内してくれたショーベルさんはセルビア語とドイツ語、ロシア語はペラペラなのだが、英語が苦手だと言っていた。後にも先にも、彼が英語で苦労していた場面に接したのはこのときだけだったが、3カ国語を駆使して東欧からロシア、オーストリアまで駆け回る国際的なビジネスマンでもこういうことがある。

 語学を含む異文化コミュニケーションでいちばん重要なのは、正しい文法でも単語量でもなく、伝えようとする意思だということを日本人はともすれば忘れがちだ。

果実酒にメタノールが含まれる理由

プロモント社。

プロモント社。

 プロモント社に戻った筆者の前には同社のラキアの瓶が並んでいた。昨日の昼まではパーリンカと言っていたので、こわもての社長の前で「パーリ……ラキア」と言い直したことも一度や二度ではない。社長が「どうすれば日本に輸出できるようになるのか」と言うと、ショーベルさんが引き取って「調べはついています。日本のフルーツメタノールの厳格すぎるほど厳しい規制が障害になっています」と言って筆者に向き直った。

 日本に東欧のフルーツブランデーが入って来ない理由は、東欧と日本の地理的・文化的な距離だけではない。この機会に説明しておこう。

 2011年、イタリア産のアプリコットのブランデーから0.32%のメタノールが検出され、商品回収のうえ販売禁止になる“事件”があった。我々が口にするアルコールはエタノール(酒精)でメタノール(木精)は飲用に適さず、大量に摂取すると失明や生命の危険が生じる。これをきっかけとして日本の税関はフルーツブランデーのメタノール残留量に神経を尖らせることとなり、規定の0.1%を超えた場合貨物保留の上、輸出国に戻すか破棄しなければならない。

 果物を原料としたブランデーになぜメタノールが混入するのか。原因は果物に含まれるペクチンという成分にあった。これ自体は果物に含まれる食品そのものであり、食物繊維として用いられることもあるのだが、これを含んでいると醸造の過程でメタノールが発生する。したがって、果実を原料としたワインやグレープブランデーにも微量ながらメタノール(メチルアルコール)は含まれている。とくにチェリーやプラムのブランデーには含まれやすい。

 しかも、メタノールとエタノールを分溜することは化学的特性により限界がある。さらに困ったことには、果物の芳香成分は果皮に近いところに多く存在し、ペクチンも果皮に多いことから、メタノール生成を避けようとすると果物由来の香味も失われるというジレンマがある。

 日本のメタノール規制による問題は、これまで日本にほとんど輸入されていない東欧フルーツブランデーのマイナーな話に留まらない。勘のいい読者が「果皮に」で想像されたとおり、グラッパの輸入も年々困難になっていると聞く。

 問題になったイタリアのアプリコットのブランデーが仮に50度750mlだとすると、ストレートで20本をいっきにラッパ飲みしないと致死量には達しないのだが、「ヨーロッパでは普通に飲めるのに……」と我々消費者がぼやいても、いったん定めた規制値を理由なしに緩めるわけにはいかないという行政の事情もある。

 製品に含まれるメタノール量を抑えるには、果汁に二酸化炭素を吹き込むとか、アロスパス式蒸溜器(連続式蒸留器の形式)の構造をいじるといった方法があるが、「果物の香味を削ることなくメタノールだけを削る」決定的な方法は見つかっていない。

楽観できないものは楽観できない

日本で好まれそうなラキアの種類は、その度数は。白熱した議論にグラスがどんどん増えていく。

日本で好まれそうなラキアの種類は、その度数は。白熱した議論にグラスがどんどん増えていく。

 話をセルビアに戻そう。ショーベルさんは続けた。「そこで我々は比較的にメタノール成分が低いムスカート(ブドウの品種名)のラキアを日本に輸出することを考えています。これは食後のコーヒーに入れてもいいし」と筆者に答えを求めてきた。

「いや、食後のコーヒーにフルーツブランデーを入れる文化を日本人が知らないわけではありません。比較的に情報が多いフランスやイタリア、スペインに関して言えば、それぞれの国の料理を専門に出すレストランで、たとえばノルマンディーのカルバドスやイタリアのグラッパ、スペインのオルホを食後のコーヒーに入れることも、その国の事情に詳しい人たちには知られつつあります。ただ、セルビアのラキアをその線で売るのは難しいかもしれません。日本でオードヴィとかフルーツブランデーとして店頭に並んでいるのはフランス・アルザス産が中心で東欧……あえて東欧と言いますが、有名なのはハンガリーのパーリンカであり、チェコの「スリヴォヴィツェ」です。そして、それさえも日本で知っている人はバーテンダーでさえ希だというのが現状です」

 話は日本の現状分析と市場としての期待度から、女性向けのパッケージ作成の話にまで及んだ。ときに紛糾し、筆者の口から出るいささか悲観的に過ぎる話はショーベルさんが通訳をためらうほどだった。長いドライブの後で向こうもこちらも疲労がつのってくる。そこに東洋から招いた人間に他国産のライバル商品の優位性をまくしたてられれば、2人にとって面白かろうはずがない。社長室の空気は一気に冷え冷えとしてきた。

ノビサドのドンも国際派のオーストリアビジネスマンのオーストリア人も柿の種はお気に入り。

ノビサドのドンも国際派のオーストリアビジネスマンのオーストリア人も柿の種はお気に入り。

執筆者

石倉一雄
石倉一雄
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。