VI 女性バーテンダーのさきがけ(3)戦後復興編

堀内洋子
堀内洋子(右)受賞風景(「日本バーテンダー協会五十年史」より)

女性バーテンダーが公式記録にはっきりと登場するのは戦後のこととなる。その後高度成長期に数十名を数えるようになり、現在では2000人近い女性バーテンダーが日本で活躍していると推定され、女性が普通に選択できる職業となった。

女性初のコンクール入賞バーテンダー堀内洋子

堀内洋子
堀内洋子(右)受賞風景(「日本バーテンダー協会五十年史」より)

 戦後復興の鎚音やまぬ昭和26(1951)年8月。大阪・右衛門町「メトロ」で行われたJBA主催第3回オールジャパン・ドリンクス・コンクール表彰式会場には、集まった多くの男性バーテンダーに混じって、一人の女性が身をこわばらせて立っていた。

「コクテールの部、第3位。堀内洋子」――彼女の名前が告げられると、会場は満場の観衆の拍手に包まれた。

 日本の女性バーテンダーがカクテル競技会で初めて入賞を果たした瞬間だった。晴れの舞台の様子は「日本バーテンダー協会五十年史」に掲載されており、6897点の応募作品の中を勝ち抜いて表彰されて緊張した面持ちのままで渡された花輪を持つ彼女の写真も残っている。

真島たち子・斎藤千鶴子ら女性バーテンダー時代の第2期

堀内洋子
堀内洋子
真島たち子
真島たち子(「ドリンクス」誌上座談会より)

 戦後復興期の女性バーテンダーの躍進ぶりについては「バーテンダー今昔物語」(鈴木昇監修、近代ジャーナル、1970)所収の斎藤千鶴子「女性のこの道 夢がもてますとも」と、PR誌「サントリークォータリー別冊 1995」所収の福西英三「飲酒風俗の変遷 酒場、かく変わりき」に詳しいが、これにJBA機関誌「ドリンクス」を重ね合わせて当時の状況をかいつまんで話すと、このようになる。

 銀座5丁目三原橋際のバー「門」に昭和25(1950)年に入った真島たち子が4年後に独立してバー「凡(BON)」を開き、白いワイシャツに黒の蝶ネクタイでカウンターに立つ彼女の姿に憧れて集まった女性バーテンダー志望者たちが戦後の女性バーテンダー隆盛の立役者となっている。

チャイカウォッカ
大塚伊都子の「ステンガ・ラージン」が1位を獲得した大会は大黒葡萄酒後援だったらしく、同社のチャイカウォッカが指定されている(当時の広告)

 昭和30(1955)年に真島を中心として14、5名の女性バーテンダーで発足したJBA婦人部は年々増加して、2年後のオール・ジャパン・ドリンクス・コンクールでは女性限定の募集枠が設けられるほどとなった。このとき大塚伊都子がカクテル「ステンガ・ラージン」(ロシア帝政時代のコサックの指導者の名。民間伝承で人気が高く、日本でもロシア民謡でよく歌われる)で1位を獲得しているから、バーテンダー今昔物語に寄稿した斎藤を含んで婦人部会員35名を数えた昭和38(1963)年あたりが日本の洋酒史に女性がバーテンダーとして登場した第2期に一つのピークを作ったということになる。

 筆者は大正10(1921)年頃の「メイゾン鴻之巣」から大正14年(1925)の「カストロ」チーフを勤めて一時代を築いた宮垣みね子をはじめ、昭和5(1930)年のJBA会員名簿に名前が残る木澤千代(上野「バー・キザワ」)、渡瀬淳子(銀座「バー・ジン」)、原阿佐緒(歌舞伎横「バー・ラパン」)、後藤はな(銀座「バー・ベルヌイ」)のさらなる足跡を探して、また広大な資料の海に漕ぎ出すこととなった。海浜の砂浜からダイヤを探すに等しい筆者の作業は終わってはいない。

現在の女性バーテンダーは2000人

 話を2012年の現代に戻そう。はたして、現在日本には何人くらいの女性バーテンダーがいるのだろうか。

 日本最大の業界団体である日本バーテンダー協会の会員数は、2011年の時点で5000名前後であり、ここに1700名のホテル・バーテンダーを中核とするHBA(日本ホテルバーメンズ協会)と、独立系で470名のPBO(プロフェッショナル・バーテンダーズ機構)だから、なんらかのオーセンティック系のバー組織に属しているバーテンダーは7000人強という数になる(各数字は2011~12年調べ)。これに、「おおよそ2割」(NBA)、「230名前後」(HBA)、「80名」(PBO)という各団体の女性数の情報を加味して計算すると、複数組織加入の重複分を差し引いても、おおよそ1300名――というのが筆者がはじき出した、組織に属している女性バーテンダーの数と言うことになる。

 さまざまなイベントで筆者が見かける女性バーテンダーの割合は「おおむね1割5分」、業務用酒販店の方や、横のつながりが多い男性バーテンダーの方何人かにうかがった比率は「1割強くらい」だから、この数字は感覚としてもはずれていない。

 さらに、大都市圏では本格的なバーとして営業している店でも相対的に組織率は下がる。それも勘案すると、モルトウイスキーの産地を説明し、50や100のカクテルを作ることが可能なスキルを備えた女性バーテンダーの数は2000人近くいることは間違いないだろう。

 2002年にスペイン・バルセロナで開催された世界的なカクテル競技会で優勝した女性が大阪のホテルにいるかと思えば、ラム好きが高じて女性2人で西麻布にバーを開き、毎年のように中南米に調達に行く女性もいる。円高の現在は、ある意味、洋酒を心底から愛する女性たちがバーテンダーとして飛躍する絶好の機会と言っても過言ではない。

人はなぜ女性バーテンダーの店に行くのか

 この原稿を執筆中に筆者がずっと考えていたことがある。古色蒼然とした味わいのハンキー・パンキーをさまざまな店で働く女性バーテンダーに調製していただきながら、筆者はまだその答えを見つけ出せずにいた――我々、身内でもなければ常連でもない普通の一般客が女性バーテンダーの店に足を運ぶ、その動機はどこにあるのか。(つづく)

「ダニューブの漣(さざなみ)」

第3回オールジャパン・ドリンクス・コンクール(JBA、1951年10月3日)
第3位受賞作品

ドライジン 1/3
パイン汁 1/3
レモン汁 1/3
クレムドミント(青) 3滴

以上をよくシェークし、コクテール・グラスのふちをレモン汁でふき、パウダーシュガーを附着させた中に静かに注ぎ、レモン皮1片を浮かべて供す。

「日本バーテンダー協会五十年史」より

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。