III 幻の「大日本基準コクテール・ブック」(5)

藤巻運太郎
藤巻運太郎(イラスト=藤原カムイ)
「十番スタンド」
「十番スタンド」は藤巻と落合の二人で営業する洋酒好きのための店であり、女給はおいていなかった。イラストは「大日本基準コクテール」掲載のたった1枚の粗い写真から藤原カムイさんに起こしていただいているため、一部推定が含まれる

「大日本基準コクテール・ブック」には「十番スタンド」の写真があった。粗い写真ではあるが、伝説の店、伝説のバーテンダーの多くの逸話が偲ばれる貴重な資料だ。

帰路の楽しみ

 神戸からの帰りの新幹線の車中。行きの高速バスの世紀末的な情景とは段違いの空間がそこにはあった。他の人に気をつかうことなく席を立てるし、通路をしばらく歩けば煙草に火をつけることもできる。ビールと酒肴を満載したカートを押す女性に声を掛ければ、電話番号は聞き出せないまでも冷えたビールは笑顔と共に差し出してくれる。小雨の中を東京から神戸に向かった筆者にとっては、出張慣れしたビジネスパーソンにとって当たり前のことが一つひとつ新鮮に見えてならない。

 神戸から笑顔で送り出してくれたバーテンダーを思い出しつつ、無事に取れた複写をチェックして、一人ささやかな酒宴をしていた筆者は、「大日本基準コクテール」のコピーの1枚にあったバーの店内写真を繰り返し眺めていた。そこには「十番スタンド」と記されている。名前だけは何度も古い文献で見て知っていたバーの写真を眺めながら飲み干す、よく冷えた一番搾りは格別だった。

「十番スタンド」の藤巻

藤巻運太郎
藤巻運太郎(イラスト=藤原カムイ)

「十番スタンド」は、昭和10(1935)年10月10日(昭和11年9月説あり)に開店した、正統的なバーだった。それもそのはず、このバーは「モダン・ガール」の項(連載第4回第6回)でも触れた、明治屋と並ぶ戦前日本の洋酒販売店の頂点だった亀屋鶴五郎商店の一角に作られた店で、その当時亀屋が輸入していた真正舶来洋酒のアンテナ・ショップという使命も持っていた。

 店の一角にバーをしつらえるに当たり、そこのバーテンダーとして招かれたのが藤巻運太郎という、名前もやたらに力強いが顔も名前に負けないくらい強面の人物だった。

 明治28(1895)年3月、山形県米沢市に生まれた彼は、大正4(1915)年、現在の神楽坂にあった「カフェー田原屋」でバーテンダー修業を始め、「十番スタンド」開店の際に請われてチーフバーテンダーとなり、以降戦局がバーの存在を許さなくなるまでここで働いていた。

 悪役顔……と書くと故人からお叱りを受けそうだが、現存する数葉の写真で見る限り、藤巻が立つカウンターで初めてカクテルを注文するときはかなり勇気がいりそうな面相だ。その強面の表情とは裏腹に、実直だった彼の人柄を物語るエピソードは多い。NBAでレクリエーションとして登山をしたときは、同行したバーテンダーの夫人が足を痛め、藤巻氏はふもとまで彼女を一人でおぶって降りたという話を、銀座「クール」の古川さんから直接うかがったことがある。また、JBAがハイキングをしたときには、自ら調製した凝った料理を二段の折に詰めて持参したという話も資料に残っている。

ミスター・シェンレー

明治38年登録とある「ワトソンNo.10」の広告
明治38年登録とある「ワトソンNo.10」の広告。James Watson and Co Ltd.は1815年創業のスコットランド有数のブレンド会社で、オード(1887)、パークモア(1800)プルトニー(1820)の3蒸留所を有し、「ワトソンNo.10」は戦前のオーストラリアでスコッチの代名詞となっていた。ワトソンは、初代Mr.バーテンダーの濱田晶吾によればピート香が強めだったと言う。ドイツ資本が入っていたため、亀屋扱いは第一次大戦の対独戦で一時中断するが、戦前に再開した

 彼が、後にNBAの要職を務める落合芳明を従えて「十番スタンド」にチーフ・バーテンダーとして入ったときのこと。禁酒法撤廃から間もないアメリカのウイスキーは、カナダやアイルランド、イギリスから大きく遅れをとっていたが、米シェンレー社が販路を拡大するため、同社のウイスキーを使った「オールド・ファッション」カクテルのキャンペーンを「十番スタンド」が展開することになった。

「10番スタンド」開店のきっかけは、シェンレーのPRという説と、当時亀屋が扱っていた「ワトソンNo.10」というスコッチのPRという説の2つがある。開店時期も「ワトソンNo.10」に合わせて昭和10年10月10日だったという説と、亀屋がシェンレー社の輸入代理店になった昭和11年9月説の二つに分かれている。

 藤巻はオールド・ファッション・グラスとマドラーを自ら発注し、当時日本のバーとしては帝国ホテルと並ぶステータスを誇っていた東京會舘でキャンペーンを張ってオールド・ファッションの普及に努めている。

 戦前はブランデーとスコッチの時代であり、普及には至らなかったのだが、戦後になって進駐軍が来た時に、シェンレー社のウイスキーとカクテルを広めようとした日本人がいたことがわかり、彼は進駐軍の将校クラブの一つとなった如水会館に出入りする米軍将校の間で「ミスター・シェンレー」の名前を奉られて、一躍有名人になった。

そして誤りの発見の衝撃

 改めて「十番スタンド」の写真を見てみると、簡素ながらも酒好きには十分な店であったことが偲ばれる。亀屋鶴五郎商店に並ぶ本物の洋酒と、カフェーからおでん屋まで経験した藤巻の手になる凝ったオードブル目当てにやって来る、当時の伊達男たちの隠れ家的な存在だったらしい。「大日本基準コクテール」掲載の写真からも、実際に飾り気はないものの、女給の嬌声とは無縁だったこの店を懐かしむ当時の文献の記述が窺い知れる。

「ワトソンNo.10」、ジョンベッグなどのスコッチが並んでいた亀屋の洋酒棚から酒が姿を消してミネラルウォーターばかりになるのは、太平洋戦争が始まってからの話になる。

 ちなみに藤巻/シェンレーの「オールド・ファッション」の処方は、角砂糖1/2個にアンゴスチュラ・ビタース3滴をかけてマドラーで潰し、バーボン(カナディアン)と水を30ccずつ加えてオレンジとレモンのスライス、チェリーを1粒加えてスティックを添えて出すという非常にベーシックな作り方だった。マティーニやサイドカーのようにバーテンダーの力量や裁量が真価を発揮するカクテルとはいささか趣を異にするが、このカクテルを広めようとした彼の功績から、「ミスター・シェンレー」と並び「オールド・ファッションの藤巻」と呼ばれている。

 彼はバーテンダーとして当時の業界でかなりの有名人だったようで、この二つの他にもカフェー時代から磨いていた料理の腕から、「オード(ブル)の藤巻」としても有名だった。

 しかし52年の時を経て筆者の手元に現れた「大日本基準コクテール・ブック」は、藤巻とオールド・ファッションのような心温まるエピソードだけを語ってくれたわけではない。 なかでも、大抵のバーテンダーなら一度は作ったことがある、日本で誕生した“あのカクテル”が誤って伝えられていたことがわかったときは衝撃だった。

 次回からは標題を変えて、そのカクテルの大日本基準コクテール・ブック掲載の本来のレシピとそれが間違って伝えられた顚末について書いていく。

(画・藤原カムイ)

石倉一雄
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Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。