巨峰育種と栄養週期理論の大井上康氏生誕日に栽培技術の大切さを考える

露地ものの巨峰はこれからが旬。今日8月21日はこの素晴らしいブドウ品種を育種した大井上康氏(1892―1952)生誕の日です。

栄養週期理論あっての巨峰栽培

大井上康
大井上康(1892―1952)

 これまでにも何度か書いてきていることですが、「巨峰」は登録商標で、もともとの品種名は「石原センテ」といいます。登録商標は司法の不当判決によって蔑ろにされ、今も心ない生産者・団体・流通業・小売業によって蹂躙され続けています(私がそこまで厳しく見るのは、これが法制度の問題ではなくモラルの問題と考えるからです)。今回、その事情の説明は他に譲って、大井上氏が体系化した栽培技術について考えてみます。

 大井上氏は、広島県江田島で海軍少将の子として生まれました。東京農業大学を卒業し、石倉一雄氏の連載「洋酒文化の歴史的考察」蜂印と赤玉~ボタニカルを巡って(2)同(3)にも登場した神谷酒造の牛久葡萄園の技師となり、ここでブドウの育種と栽培技術の研究に没頭することになります。

 彼はその仕事の中で、植物の栽培技術「栄養週期理論」をまとめます。おおまかに言えば、播種・育苗の段階では栄養素とくに窒素を一切与えず、活着して根を伸ばした後、体を作っていく段階で初めて窒素を与え、花芽を付けるときには窒素を切ってリン酸とカリウムを与え、果実を充実させる段階ではそれらも切ってカルシウムを与えるというもので、さらにさまざまな微量要素の与え方の妙が加わるというものです。

 ところが、どうしたわけか、この理論は当時の学会では黙殺されました。今はおよそそういうものであろうと受け容れる人も多いでしょうが、初期に窒素を全く与えないこと、登熟期にカルシウムを与えることがポイントであることなどは、まだそれほど広くは理解されていないようです。

巨峰
巨峰

 さて、大井上氏は1945年に後に巨峰と名付ける石原センテを生み出します。品種名は岡山県産の石原早生とオーストラリア産のセンテニアルを交配したことに由来し、巨峰の名は静岡県下大見村(現伊豆市)に置いた大井上氏の研究所から見える富士山にちなんだということです。

 後年、石原センテは後継者によって種苗登録申請がされますが、これがまたもや冷たい扱いを受けます。農水省から種苗登録が拒絶されたのです。理由は、花振い(結実せずに花が落ちること)が多いこと、果粒の着色が不ぞろいなこと、脱粒しやすく輸送や販売に支障があることなどであったといいます。

 大井上氏も後継者も、もちろんプロですから石原センテにそのような特徴があったことは知っていたはずです。それでもなぜそれを新品種と認め、普及を図ったのかは、農水省の官吏とは違うものを見ていたからと考えるべきでしょう。すなわち、栄養週期理論を柱とする栽培技術をもってすれば、石原センテはうまく育てられたということです。つまり、巨峰=石原センテという品種と栄養週期という栽培技術はセットになって社会に恩恵をもたらすものであったということです。

育種偏重になる作物研究

 戦前、国内と外地でわずかに実践されていた栄養週期理論に沿った栽培は、戦後も急激に普及することはありませんでしたが、実践者たちの間では「ものがない時代に少ない肥料で多収が望めるありがたい技術だった」と大切に継承されてきました。ただし、それは肥料を売りたい企業・団体にとっては困る話で、実証圃場が掘り返されるなどの妨害を受けたということです。

 他人の圃場を破壊するなどは到底許されることではありませんが、これは近年も遺伝子組換え(GM)作物の圃場に対して行われたことです。思うに、ある新しいものの有効性が認められるとよほど困る人というのは昔も今もいるわけでしょう。

 そうした乱暴の話はさて置き、品種と栽培技術は切り離せないものであることは、改めて確認しておきたいと思います。「そんなのは当然だ」と言う方も多いでしょうが、農業に関する情勢を見ると「当然」にはなっていないようです。

 昨今の農業技術は育種偏重、品種への興味に偏っていないでしょうか。品種は商品戦略上も重要なものですから、大切に考えアンテナを張ることはもちろん悪いことではありませんが、便利な品種であればそれで農業生産が改善されるという見方には警戒するべきでしょう。各地でGM作物を実際に栽培してみたいという農家の多くは、それが本当に有効なものか、どれだけ経営を改善するものか、実際に作って見極めたいと考えています。この感覚こそは、経営者として当然のものでしょう。私はじめ、書いて伝える者は、そこを忘れず、何かを手放しでほめるようなことがないように気をつけなければなりません。

 ところが、昨今の農業分野の大学には、屋外での生産活動には全く興味を持たない学生が増えているということをよく耳にします。私も実際にそのような学生や卒業生と話をしたことがあります。いわゆるバイテクのブームに乗ったこと、それでの立身を考えたことが、大学のムードも変えているようです。

 バイテクは日本の今後の経済上の戦略上も重要なものになっていくはずですから、いろいろな学生が取り組める風は悪いことではないのですが、一方で栽培技術の研究が評価されにくいという話も聞きます。細胞の研究以外はブームのバイテクとは異なるものと考えられているようです。また、栽培は地域や気象によるところも大きく再現性の面で弱いことなどから、論文にしづらかったり、論文が評価されにくい事情もあると聞きます。半面、統計を取るためには大規模で時間のかかる栽培実験も必要で、金のかかるものです。そうなると、昨今の大学の研究費のあり方の中で、しっかりした研究を行うのは苦労の多いことのようです。

育種と栽培技術の両立で新境地へ

 それでも、いかに新しい優れた品種であろうとも、適切な栽培技術抜きにそれを生かすことは難しいはずです。除草剤耐性のあるGM品種の有効性も、適時・的確な除草剤散布あっての話です。最近話題になっている、害虫抵抗性のあるGM作物に対する耐性を持った害虫の登場というのも、適切な栽培を行わなかったことによるものです。

 新しいものには、新しい適切な使い方があるわけです。

 さらに、GM作物と主に有機栽培で培われてきた栽培技術の組み合わせは、増収、コストダウン、環境負荷の低減をさらに進めることを期待できる道であるはずですが、それがまだまだ積極的に研究されていないのは、有機栽培実践家にGM作物を嫌う向きが多い半面、GM作物の研究・育種・販売サイドにも、栽培技術は品種特性でカバーできると考える向きが多いのではありませんか。

 品種登録が拒絶された巨峰=石原センテは、今日では日本のブドウの大メジャー品種の一つになりました。そして、その栽培の難しさは昔も今も変わらないのです。おいしい巨峰が食べられるのは、品種としての特徴がある一方、それをうまく育てるための栽培技術が普及したからにほかなりません。

 栄養週期という名前の付いたもの以外にも、日本にはさまざまな栽培の知恵があります。そうしたものへの関心を高め、統合し、植物の生理の理解を深めることは、特殊で高価な資材(肥料、土壌改良資材、菌体等)さえ使えば何とかなるといった判断停止型の生産に陥る愚を避けることになります。

 さらに、そのことを社会人にも子供たちにも伝えることは、単純なキーワードに惑わされない賢い消費者を増やすことにもなるでしょう。

 たとえば、8月21日、大井上康氏生誕日を「栽培技術の日」と考えて、品種と栽培技術のバランスに思いを致すこととしてはいかがでしょうか。

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●伊豆市観光情報/大井上康学術文献資料館(国登録有形文化財)
http://kanko.city.izu.shizuoka.jp/form1.html?c1=5&c2=1&aid=2&pid=2438

齋藤訓之
About 齋藤訓之 305 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所客員研究員。昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。日本フードサービス学会会員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。東京栄養食糧専門学校非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →