ワインの腐敗臭・カビ臭の原因はワインでないことがある

テイスティングで異臭を感じた場合、それはワインに異臭があるためと考えるのが普通だ。ところが、実際にはワインではない意外なものから異臭が出ていることがある。決して珍しいことではないから、テイスティングの際は環境と道具を適切に準備する必要がある。

腐った雑巾の臭い

 ある年ある日の昼下がり、洋酒の試飲商談会へ出かけた。会場は都内某有名ホテルで、主催は有名な総合酒類問屋兼インポーターのN社であった。

 会場入口できれいに磨かれた中型のボルドー型ワイン・グラスを渡された。小さな国際規格のテイスティング・グラスではない。贅沢な配慮である。赤白用に二つのグラスを確保して会場に入った。

 既にかなりの来場者で賑わっていた。入口隣のブースに親しくしている輸入業者営業マンN氏がいて、誘われて同社の新着ワインの試飲を始めた。

 ところがである。注がれたワインに鼻を近付けて微生物汚染を感じ取った。わずかではあるが腐った雑巾のような臭いとカビ臭と思われる臭いが嗅ぎ取れたのだ。

 隣に未使用のワイン・グラスが山積みされていたので、前に注いだワインの影響を排除するためグラスを新しいものに換えて次々に他のアイテムを試飲した。すべて同じ症状であった。N氏は顔面蒼白である。未開封の同種アイテムも複数抜栓しテイスティングを繰り返すが、結果は同じであった。

 同一輸入業者の同一コンテナで運ばれた、複数の蔵元の複数のアイテムのワインに同一の変質が発生していたのである。症状からすれば、貯蔵熟成に使われた古樽の衛生管理不備を一番に疑うのだが、テイスティングしたものの中には明らかに樽は不使用のものにも同じ症状があるのだ。N氏も私も、変質はコンテナ内で起こった可能性が高いと考えた。しかし、ワインはもちろんリーファー輸送されたものである。荷主に報告されていない未体験のトラブルが発生したのだろうか? 今までにこんな事例に遭遇したことはない。

 しかしそこで時間を費やすわけにもいかない。困惑するN氏に、原因が判明したら教えてほしいと伝え、新たなグラスを二つ調達して会場を奥へ進んだ。刺激の強い蒸留酒やリキュール類のブースを避けて、次のワインのブース前に立ち、試飲をお願いした。

 注がれたワインに鼻を近付けて驚いた。同じ臭いがするのだ。

ワイン・グラスに付いた異臭

 そこで俄然気が付いた。臭いの原因が明白にわかったのだ。読者のみなさんも、もうおわかりだろう。微生物汚染されていたのはワインではなくワイン・グラスだったのである。

 振り返ってみれば、新しいワインを試飲するごとに、潤沢に用意された新しいグラスに換えていたことが事態をさらに複雑にしたと言える。

 確認のために、かたわらのサイド・テーブルに置いてあったPETボトルのミネラル・ウォーターでグラスの内外を入念に洗い、ワイン廃棄用バケツに捨て流した。その洗浄したばかりのワイン・グラスで再度同一ワインの試飲をお願いすると、異臭は完全に消えていた。

 N氏のブースに戻って状況を説明し、先刻飲みちらかしたままの十数個のワイン・グラスを二人で水洗いし、再度テイスティングし直した――すべてが健康なワインだった。

 念のため、入口に積んである未使用のワイン・グラスを取り、PETボトルから少量のミネラル・ウォーターを注いで鼻を近付けた。案の定、例の異臭が漂ったのでN氏にも手渡し、確認してもらった。

 試飲商談会で、このようなグラスの水通しなしで試飲を始めた場合、最初に注がれたワインは不良ワインと判断されてしまう。注意深いテイスターは、もちろん次のワインに影響しないようにグラスを水洗いする。この場合、濡れ衣を着るワインは1本だけで済む。しかし頓着ないテイスターの場合には、グラスに付着している異臭源のすべてが、次々に注がれるワインによって自らの胃袋の中に洗い流し切られるまでは、複数のワインに濡れ衣を着せてしまう。原因追求しない代わりに、複数本のワインに購入不可の判定を下すことだろう。真犯人はグラスであると気付くテイスターは何人いるだろうか?

 あの日、N氏の顔に安堵の色が広がったのを見届けた後は、主催問屋側の旧知の幹部スタッフA氏を探した。A氏に事情を伝えながら会場内を見回してみたが、来場者が苦情を言っている様子はうかがえなかった。

クロスの雑菌繁殖に注意

 場内に不満が表面化していないことで、A氏はホッとしている様子だった。しかし、人は不平を言うほど問題をはっきり認識していなくても、行動は変わるのだ。

「Aさん、ホッとしてる場合じゃないでしょ! 午前中の商談、成約率低かったんじゃないの?」と尋ねると、顔色が変わった。やはり注文は少なかったようである。

 そこで「出展者は無駄な出費をしただけじゃないんだよ。商品も会社も評判を落としてしまった可能性が高いんだよ!」と苦言を呈し、さらに「すぐにホテル関係者に厳重抗議してグラスを交換させないと!」とA氏を促した。すると同氏はシドロモドロになりながら、「実はこのグラスはホテルのグラスではないんだよ。経費節減のために自分たちで手配したレンタル・グラスなんだよ」と白状した。

 私は「ホテルに事情を話して、丁重に食洗機での全量洗い直しをお願いしてよ。クロス拭きはなしだよ!」と強く主張した。

 洗浄したグラスを拭くクロスが不衛生だったために起きた事故である。とは言え、腐った雑巾でグラスを拭いたというわけではない。湿度の高い季節に部屋干ししたクロスなどに雑菌が繁殖してしまう場合があるのだ。また、大量のグラスを拭いて湿ってしまったクロスは、作業者の手の汗のしみ込みもあり、わずかな時間で雑菌が繁殖してしまう場合がある。

 クロスの雑菌繁殖が強ければ、拭かれたグラスは光沢を失い、すぐにグラスへの疑念を懐くことになる。だが、軽微であると光沢は失われず見逃してしまう場合があるのだ。グラスのレンタル会社側もこれを見逃したのだろう。

 だが、これはこのときだけの事故ではない。その後、さまざまなテイスティングなどの機会で同様のことに気付くことは多く、この手の事故は意外に頻発しているのだ。グラスは光沢があっても要注意である。

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酒類品質管理アドバイザー おおくぼ・よりあき 1949年生まれ。22歳で家業の菊屋大久保酒店(東京都小金井市)を継ぎ、ワインに特化した経営に舵を切る。「酒販ニュース」(醸造産業新聞社)に寄稿した「酒屋生かさぬように殺さぬように」で注目を浴びる。また、ワインの品質劣化の多くが物流段階で発生していることに気付き、その改善の第一歩として同紙上でワインのリーファー輸送の提案を行った。その後も、輸送、保管、テイスティングなどについても革新的な提案を続けている。