「これがあってよかった」体験の提供でうまくいくリスコミ

ある農家の鶏卵。人を楽しませる経験の作り方はさまざまだ
ある農家の鶏卵。人を楽しませる経験の作り方はさまざまだ

ある農家の鶏卵。人を楽しませる経験の作り方はさまざまだ
ある農家の鶏卵。人を楽しませる経験の作り方はさまざまだ

最近の味の素のテレビCMに好感を抱く。「小栗流直球たまごかけご飯」篇と名前が付いている。俳優の小栗旬が、ジャーから丼によそった熱々のご飯にくぼみを作って生卵を割って載せ、醤油をかけ、そこに味の素を振って、かきまぜながらかき込む。それだけのシーンで、特段の説明はない。食べているシーンが終わった後に、「さとうきびを醗酵させて」というメッセージも流れるが、このカットはおとなしい。最も伝えようとしているのは、俳優が言う「うまい」のセリフのはずだ。まさに「直球」だ。

 昭和30年代の終わりに生まれた筆者は、あの味をよく知っている。だから、映像を見ただけで、子供の頃のいろいろなことを思い出す。私の場合は、椀に生卵を割り、そこに味の素をひと振り。そこに醤油を垂らしてかき混ぜる。醤油は、白身の部分に垂らすのと、箸で黄身をつついた穴に垂らすのとでは、かき混ぜた後の色の濃さが違う。今日は黄色っぽくするか、黒っぽくするか、それを考えながら、隣で同じことをやっている兄の椀と自分の椀とを見比べながら準備して、かき混ぜたものを熱い白飯をかき分けて開けた穴に注ぎ込む。

 母親は、どんなに時間のないときでも、ご飯とおかずのほかに必ず味噌汁か吸い物を作った。今、妻と同じかそれ以上に家事をする身としては、時間のないときに汁物を用意するのがどんなに面倒なことかがよく分かる。それで、子供に汁のない食事を食べさせてしまうことがままあるのだけれど、母親のことを思い出すと頭が下がり、子供に申し訳ないと思う。

 で、母親は裏技を心得ていた。時間のないときにはとろろ昆布の汁を作るのだ。椀に、とろろ昆布をひとつまみ入れて、それに味の素を振って醤油を差し、熱湯を注ぐ。それだけだ。簡単なものだけれど、その裏技のおかげで、私は夕食のときに汁物がなかったという味気ない思い出というものがない。だから、味の素には恩がある。

 ほかにも、何かと味の素を使ったものだ。うちだけの話ではない。今でも、親戚や友人の家、妻の実家などで食事をごちそうになるとき、あるいは、田舎町のおばさんが一人で切り盛りしているような居酒屋や小料理屋に入ったときなど、なんとも心がなごむ光景がある。突き出された漬物の上に、小さな針のような結晶が白くキラキラ輝いている――味の素を振ってくれたのだ。たいてい、漬物はその家で丁寧に漬けた手作りで、自慢の品でもあるはずなのだが、私の父母の年(70代)かそれ以上の人たちは、特にそうする。出されたままの漬物をそのまま箸でつまもうとすると、「かけなさい」と味の素の小瓶を差し出してくれもする。

 したり顔でこういうものの悪口を言う友人もいるが、私は好きだ。それは、「少しでもおいしく」という善意でもあるだろうし、中国料理店で老酒を頼んだときに添えられるザラメのように「これでも使って味を良くして」という謙遜でもあるかもしれない。どちらにせよ、愛すべき心づかいで、それがうれしく、ありがたい。

「そういうものを食べてきて、さぞやあなたは味覚音痴であろう」と言う人もいるかもしれない。いやいや。以前、「日経レストラン」の取材で、味の素に無理を言って、社員全員に行っているという官能試験を受けさせてもらったことがある。鹹味(かんみ)、甘味、酸味、苦味、うま味それぞれの水溶液をなめてどの味かを答え、その水溶液をだんだん薄くしていくという試験だ。これは自慢だが、結果は50点満点で48点(最も薄い水溶液の段階で、一度だけ甘味と苦味を取り違えた)。同社の社員のトップクラスと同等の味覚を持つと太鼓判を押してもらった。

 以前、北野大氏の、洗剤に関する講話を聞いたことがある。小中学校の家庭科教師を対象に、中性洗剤がどういうものかの説明だった。その話の中で、「では、なぜ中性洗剤は悪口を言われ、石けんがよしとされる風があるのか」という問題について、氏は、「1つには、石けんが生まれたときにはもうあったからでしょうね」と言われた。昔から使っているものには抵抗がなく、安心するものなのだろうというのだ。

 これは1つの真理だと思う。そして、抵抗がないだけでなく、郷愁などもからんでくるはずだ。私の味の素の思い出が、その例だ。

 今、消費者やある種の思い込みを持った人たちから攻撃を受けやすい、新しい物質を扱っている企業は、このことをよく理解しておくべきだ。「時が解決してくれるのを待つしかない」と思うべしというのではない。人々が「これがあって良かった」と感じられる体験を作っていくことができなければ、どれだけ年月を重ねても、愛される商品にはならない。肥料、農薬、種苗など、消費の現場で消費者との接点を持ちにくいものは、特に要注意だ。消費のシーンで、どのようにありがたみを感じてもらえるものか、その演出に知恵を絞らなければならない。

 消費者を集めて、科学的に安全なものであること、経済的にも理にかなっているものであることなどを説明する機会を作っている業界もあるが、それでは不足なのだと理解しなければならない。説明会は消費の現場ではないからだ。

 苦労している業界の人は、まずは味の素史をひもとき、学べる点を探してみるべきだ。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

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About 齋藤訓之 398 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所特任研究員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。日本フードサービス学会、日本マーケティング学会会員。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →