X 帝国ホテルのマウント・フジ(6)

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)

改めて調べてみると、富士屋ホテルは旅行など滅多にしない筆者が思い込んでいたような“どこの温泉地にもあるご当地ホテル”などではなかった。明治11(1878)年創業の後も、外国人向けのリゾートホテルとしてさまざまな新機軸を打ち出している。また、立教大学に観光学部が発足したのは、3代目オーナー山口正造の遺志による寄付講座からだという。

どちらかが盗用というのはあり得ない

 これほど品格のあるホテルが帝国ホテルのカクテルを盗用するはずがないし、その逆もしかりだ。

 しかし、10年前に月刊のクレジットカード会員誌「SIGNATURE」に帝国ホテル版マウント・フジのことを書いたときは締め切りの事情もあり、それ以上のリサーチまでは進めることができなかった。

 これはちょっと余談になるが、帝国ホテルのマウント・フジにはマラスキーノチェリーが飾られているが、富士屋ホテルのマウント・フジには飾りがない。

 では、「SIGNATURE」にどのようなビジュアルを載せたものか――チェリーを飾れば帝国ホテル版に、チェリーなしでは富士屋ホテル版になってしまい、協力していただいた両ホテルの広報に申し訳が立たないということになる。当時、イラストを書いてくれていた藤原カムイさんに資料を渡しながら、筆者がそうこぼすと、彼はあっさり「なんとかしましょう」と言って帰り、やがて感心するようなイラストを描いてくれた。それがどんなものであったか、こちらは筆者のブログの方に近々アップすることとしたい。

 その後も富士屋ホテルとは交流が続き、同ホテルが企画した戦前カクテル復刻キャンペーンのレシピとパンフを手掛けることになるとは思ってもいなかったのだが、その話はマウント・フジとは関係がないので、今回はこの辺にしておこう。

山口正造が帝国ホテルの支配人に

ここで、本シリーズの最初の方で説明した帝国ホテルの歴史(「帝国ホテルのマウント・フジ」(1)同(2)参照)、とくに慢性的な資金難に苦しみながらも戦前日本の対外的な表玄関の役割を勤め続けてきた帝国ホテルに、起死回生の立役者としてニューヨークから林愛作が支配人として就任した明治42(1909)年から、マウント・フジが誕生したとされている大正13(1924)年、この15年間の部分を振り返っておきたい。

 軟弱な地盤に建てたこともあり、建築から20年近く経って老朽化が進む渡辺譲の初代帝国ホテルを建て替えることは焦眉の急だった。その二代目の帝国ホテルの設計を下田菊太郎から引き継いだのがフランク・ロイド・ライトだった。

 多孔質の大谷石で外観と内装の主要部分をまとめ、ホテルそのものを一つの芸術品とするライトの徹底主義は、建物だけでなく椅子や皿一枚のデザインにまで及んでいた。ライトの徹底主義と芸術家肌も災いして工期は遅れに遅れ、建設費は当初予定の5割増しがいつしか倍になり、とうとう最後には7倍に及んだといわれている。

 いつまで待っても完成しないことに苛立つ出資者たちと、芸術家肌のライトの狭間で苦悩する林愛作の様子はまことにドラマチックなのだが、マウント・フジ誕生の謎を追う本稿では主題から外れてしまうので、興味がある方は拙稿でも参考にさせていただいた「帝国ホテル・ライト館の謎」(集英社)を読まれることをお奨めしたい。

 さて、後にライト館と呼ばれる新館の建設が未だ半ばの大正11(1922)年4月、初代帝国ホテルの地下室から出火した火は瞬く間に広がって、そのほとんどが焼け落ちてしまった。気難しい芸術家肌のフランク・ロイド・ライトと、金ばかりかかって一向に完成のめどが立たない新館に苛立つ関係者の狭間で煩悶してきた支配人林愛作は、この失火の責任を取る形で辞表を提出することとなった。

 ここでピンチヒッターに立ったのが、富士屋ホテル取締役の山口正造である。帝国ホテル版マウント・フジを追う我々にとっては、ついに、帝国ホテルと富士屋ホテルをつなぐ人物が登場したということになる。

 山口正造の人生は波乱万丈、まさに明治時代の立志伝中の人物だった。彼の事績を紹介するには、まず富士屋ホテルを含む外国人向け観光ホテルの歴史を紐解いておく必要がある。

観光ホテルの草分け・金谷ホテル

 日本における外国人向けの接遇施設の歴史は築地ホテル館(明治元年~明治5年)や延遼館(明治2年~明治25年)に始まり、明治23(1890)年の帝国ホテル開業で一つのピークを迎えていた。だが、外国人向けの観光ホテルは、それとは別に独自の進歩を遂げていたのだ。

 幕府が技術の粋を極めて建立した徳川家康を祀る日光東照宮に、あるとき外国人がやって来る。“異人”を見たこともない人々がこわごわ見守る中、その白人、ヘボン式ローマ字のJ.C.ヘボンに一夜の宿を与えたのが金谷ホテルの創業者金谷善一郎だった。これが明治6(1873)年創業の金谷カテージ・イン、後の金谷ホテルの発祥である。山口正造はこの金谷家の二男として明治15(1882)年7月に生まれている。

石倉一雄
About 石倉一雄 128 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。