VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(16)

洋酒文化の歴史的考察
洋酒文化の歴史的考察

注文していたオルゲートが届いたので、改めてジャパニーズ・カクテルが紹興酒と共通の味を持つ飲み物であることを確かめてみる。ところで、筆者の自宅にはジガーがない。なぜないのか、この機会にお話しておきたい。

役者はそろったがジガーがない

 筆者のもとにオルゲートが届いたのは、ミカド・カクテルの連載が終盤に向かっている頃だった。サヴォイ版を復元してから10年、紹興酒との共通性に思い当たってから7年が経っている。

 ビタースを驚くほど大量に使う文久2(1862)年のジャパニーズ・カクテルはその日まで試したことがなかった。もしも、J.トーマスのオリジナルレシピによるカクテルの味が紹興酒と似つかぬものであったら、サヴォイ版ミカド・カクテルと紹興酒の共通性は単なる空似となり、J.トーマスが考案したオリジナルと中国との接点を探してきた筆者の苦労も、4カ月に渡って拙稿にお付き合いいただいてきた読者の忍耐も水泡に帰すことになる。

 さて、バーテンダーの商売道具といえばジガーという液量計なのだが、これが筆者の家にはない。液量を測ることができるものと言えば、ホットケーキを作るためのパイレックスの計量カップしかないから5~10mlの計量には適さない。

 とは言え、ブランデーは紅茶用に振り入れていたアルマニャックがあるし、今年の猛暑で帰宅後に毎日2杯は飲んでいたジントニックに使っていたアンゴスチュラ・ビタースも、クレームドノワイヨーの代替品となるアマレットも自宅にある。偶然のことだが役者は揃っている。円錐を二つ重ねたジガーがないだけで延期するのもいまいましい。なにより、一日も早くその帰趨を見極めねばならない。筆者は帰宅の際に100円ショップで大匙と小さじがセットになった計量スプーンを買うことにした。

一線を越えないための戒め

 拙稿「赤くなかった“赤富士”」(マウント・フジ)のときと状況が似てきたが、実はあの原稿を書いたときには触れていなかったことがある――さんざん配分がどうだ、比率がこうだと細かいことにこだわって説明する筆者の手もとに、なぜ「精密実験」には不可欠なはずのジガーがないのか。

 洋酒、それも古い洋酒のことばかりを調べている筆者は、バーテンダーの方がご存知ないことを知っていたり、ある特定のカクテルについて異様に詳しくなることがままあり、こちらからバーテンダーの方に具体的な配合比率ばかりか、シェーカーの振り方、果ては使う氷の状態まで事細かに指定して作ってもらうことも珍しくない。バーでよく注文があるマティーニやモスコーミュールならともかく、歴史と言う特殊なプリズムを通して調べている人間が特定のカクテルや洋酒について昔のレシピやら誕生のエピソードやらを調べているのだから、バーテンダーも黙って話を聞くしかない。

 ところが、人間というのは不思議なもので、相手より何かに詳しかったり、目先が効いたり、踊りが上手だったりすると、無意識にそれが態度に出てくる。それも尊大であったり上から目線になったりと、まずいい方には傾かない。おまけにこちらは酔っているわけで、カウンターを挟んで対峙する素面(しらふ)のバーテンダーは人を観察することが仕事だから、筆者がお門違いな優越感を持っていたとしたら、それは彼らの研ぎ澄まされたアンテナで察知される可能性が高くなる。そうなると、いくら筆者がマウント・フジ誕生の経緯を熱弁したところでそれは知識の押し売りになり、最初は熱心に耳を傾けてくれていたバーテンダーの表情が、いつしか「お詳しいですね」の言葉と共に愛想笑いに変わる危険が多々ある。

 せっかく人目につくことを避けて客が少ない浅い時間にバーテンダーと二人きりで話していたのに、そこにスーツを着こなした美女が颯爽と現れでもしたら目も当てられない。最初は黙って聞いていた彼女の口から「お酒のこと、お詳しいんですね」のひとことが笑顔とともに発せられたが最後、歯止めを失った筆者は有頂天になって延々ディープな話に彼女を付き合わせること数時間、あきれて帰ってしまった彼女にも気付かずにバーの主人ででもあるかのように熱弁を振るい続けて、翌日布団の中で悔恨と羞恥にさいなまされるような事態になりかねないのだ。

 だから、筆者はバーテンダーという仕事に敬意を表し、その一線を越えないためにも、ジガーやシェーカーをこれからも自宅に置くつもりはない。「バーテンダーと言うプロの仕事に素人である自分が立ち入ってはいけない」という一線を引くことが、酒の種類のストックの多寡や知識・経験の量にかかわらず、その店のバーテンダーを尊敬し、彼らがカウンターを挟んで客と培ってきた空気感に従うことにつながり、それが結果的に珍妙な注文や、はたからみれば意味不明な会話で不可避的に生じてしまう、バーの空気の“濁り”を最小限にとどめる唯一の方策と心得ているからだ。

 他の客の耳目を引き付けるようなこと、たとえば持ち込みの素材でカクテルを作ってもらったり、酒についてのディープな会話を持ち出す立場だからこそ、バーを素直に楽しみにやってくる一般客とバーテンダーの空気を壊してはならない……そんな思いがあることは、まぁ余談なのだが。

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。