ニンニクの毀誉褒貶

ニンニク
市民権を得たニンニク。利用の深化はこれからだ
ニンニク
市民権を得たニンニク。利用の深化はこれからだ

先日、ニンニクに付いて学ぶ機会があった。専門の方にはもの足りないかもしれないが、私なりのニンニク・レポートをまとめてみた。現代日本の食生活を見ると、至る所にニンニクありで、かつて日本に“ニンニク禁食令”が出されたこともあったなどは思いもつかない。

中央アジアからエジプト、ギリシャへ

 世界を見渡せば、中国料理、韓国料理、イタリア料理、フランス料理など、ニンニクは多くの各国料理の食材として使われている。また健康食品や“薬”としても、幅広く使われてきた。

 利用のしかたは多岐にわたる。生食、煮る、揚げる、焼くなどはもとより、蒸留酒に漬け込んだり、黒酢などの食酢に漬けたり、味噌、醤油などに漬け込むことも行われている。香辛料としても欠かせないものとなっている。チップやパウダーなどの乾燥品にしたり、酵素分解させるといった利用法もある。

 原産地は中央アジア原産とも言われるが、未だ特定できていない。最古の記録は約5800年前にさかのぼる。エジプトのツタンカーメン(B.C.1342~B.C.1324年頃)の墓の中からは、乾燥して完全に保存されたニンニクの鱗茎6個が発見されている。ギリシャの歴史家ヘロドトス(B.C.490~430年頃)がエジプト訪問の際に書いたとされる書物には、現地の通訳官が、こんなことを教えてくれたと書いている――「ピラミッド建設に従事する労働者に、ニンニク、タマネギ、ラディッシュを与えるため、当時としても多額の経費を使った」と、ピラミッドの石に彫られているという。

 古代ギリシャ、ローマでも、ニンニクは食用と薬用に珍重されたという。

 中国にニンニクが伝わったのは、B.C.140年頃、漢の武帝時代らしい。当時、漢族の国家を脅かしていた匈奴に対するため、西域の大月氏国と結ぶべく使わされた張騫が持ち帰ったと言われている。元々中国にも類似の植物はあったようで、中国では、張騫が野持ち帰った植物を指して大蒜(DASUAN=たいさん)と呼ぶようになった。

日本書紀にも登場するニンニク

 ニンニクが中国経由で日本にもたらされたのは4世紀後半から5世紀前半頃と言われている。やはり薬用、食用に珍重されたが、呪術的な力も感じられたようだ。

「日本書紀」には、日本武尊(やまとたける)が、ニンニクを使ったくだりがある。信濃国に入り、険しい山越えの途中の山中で食事をしていたとき、山の神がみことを苦しめようとして、白鹿となって立ちふさがった。みことはこれに対し、手に持っていたニンニク1個をこの白鹿に投げつけたところ、これが白鹿の目に当たり、白鹿は死んでしまった。

 この地が、現在の長野県西南に位置する阿智村にある昼神温泉とされている。「昼神」は「蒜噛み」からとも。一方、「古事記」にもほとんど同じ内容の記述があるが、場所が足柄山に代わっている。

 日本史の中では、ほかにも「源氏物語」など、さまざまな書物にニンニクが登場するし、和歌にも詠まれている。もちろん、薬草の事典の類にも掲載されている。

 そうした日本でのニンニクの歴史の中で興味を引くのは、その効用が素直に認められる時期と、臭いや効果が強すぎることで疎んぜられる時期と、その評価が上下に大きく振れたことである。

仏教で忌避された「五葷」の一つ

 日本でのニンニクの毀誉褒貶の歴史は、仏教とくに禅宗とのかかわりの中で際立つ。

 中国から伝わった禅宗では、厳しい修行を行うことがある。その際の体力維持のために、ニンニクなど栄養価の高い食品を食べることがあったらしい。ところが、ニンニクは強壮作用が強く、煩悩・淫欲を増長するとされ、禅僧がこれを食することが禁止された。同様に食を禁止された5種類の植物、即ちニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウ、ノビルを「五葷」(ごくん)と呼び、不浄の食べ物とした。そして、禅寺の山門には「不許葷酒入山門」と書かれた板が掛けられ、食べると苦役30日の罰則が適用されるといったこともあったようだ。こうした考え方が日本にも伝わったわけだ。

 しかしその後、鎌倉時代、南北朝、室町時代と時が移るとともに、その効果が認められていったのか、また仏教の戒律が弱まったためか、ニンニクは次第に市民の生活の中に広がって行った。ところが、この後日本史上最大のニンニク受難時代が訪れる。江戸時代である。

 徳川幕府は仏教を重視し、中でも禅宗を庇護した。その中で、ニンニクは再び“不浄”とされてしまったのだ。幕府は寺院諸法度と宗門改を発し、これらによって「ニンニク=禁忌」の方向を強く打ち出した。

 同時に鎖国政策の中で国内の医学の進歩が遅れるが、こうしたことも、ニンニクの評価が下がったことに関係があるようだ。

大衆化のきっかけは民間療法

 ニンニクの復権は明治3年(1870年)まで待たねばならなかった。この年に出された神仏分離令により、江戸時代から長らく続いた仏教に対する保護がなくなり、むしろ排撃すらされるようになった。これがニンニク復権の第一段階だが、ただしその臭いのためもあって“不浄”とする感覚が残り、この時点でもまだ食用に薬用にと華々しく復活するには至らなかった。

 そのニンニクの価値が復活するのは、1960年頃のことだ。このころ、近代的な医薬品の安全性に対する不安や近代医学を批判する機運が起こり、ヨーロッパを中心に伝統医療・民間療法が流行するようになった。その流れの中、米国、日本でもニンニク食が盛んになったのだ。

 その後、日本では滋養強壮から、ニンニクの味も評価されるようになったと言えるだろう。アルコールに合う各種の料理の材料として多く使われるようになり、焼肉店やエスニック料理でさらにニンニクが一般化し、イタリアンブームも経て、一般的な食材の一つとして定着したと言えるだろう。

 とは言え、ニンニクの本格的復権からまだやっと半世紀になるかならないかの短時間しかたっていない。思い起こせば、私などもニンニクに対する偏見を母親から聞かされていた記憶がある。ニンニクの食用、薬用での活用のバリエーションは、今後まだまだ深化していくだろう。

奥井俊史
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アンクル・アウル コンサルティング主宰 おくい・としふみ 1942年大阪府生まれ。65年大阪外国語大学中国語科卒業。同年トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)入社。中国、中近東、アフリカ諸国への輸出に携わる。80年初代北京事務所所長。90年ハーレーダビッドソンジャパン入社。91年~2008年同社社長。2009年アンクルアウルコンサルティングを立ち上げ、経営実績と経験を生かしたコンサルティング活動を展開中。著書に「アメリカ車はなぜ日本で売れないのか」(光文社)、「巨象に勝ったハーレーダビッドソンジャパンの信念」(丸善)、「ハーレーダビッドソン ジャパン実践営業革新」「日本発ハーレダビッドソンがめざした顧客との『絆』づくり」(ともにファーストプレス)などがある。 ●アンクル・アウル コンサルティング http://uncle-owl.jp/