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「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」のコメとムギ

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現在公開中の「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」を紹介する。

農の神々の出会い

 1981年10月7日、金沢市で開かれた日本育種学会30周年記念大会で2人の育種家が初めて顔を合わせた。1人は1960年代に半矮性(草丈の低い)コムギを開発し収量を飛躍的に増大させた「緑の革命」によって当時大凶作となっていたインドやパキスタンの多くの人々を食糧危機から救い、1970年にノーベル平和賞を受賞したアメリカ・ミネソタ州出身のノーマン・ボーローグ博士。そしてもう1人はそのコムギの基となる「小麦農林10号」を育成した日本人・稲塚権次郎(以下、権次郎)である。

 ボーローグ博士はこう述べた。

“If I had not had your splendid ‘NORIN TEN’, my research would have never been possible.

Thank you so much!”

(あなたの「NORIN TEN」がなければ、私の研究は実現しなかったでしょう。本当に感謝します)

「NORIN TEN 稲塚権次郎物語」は、その権次郎の農業に捧げた生涯を描いた伝記映画である。

日本を飢えから救った「水稲農林1号」

 映画は1986年、晩年期の権次郎(仲代達也)の日常描写から始まる。リュックサックを背負って農道をバイクで走り回り、転倒してしまうくだりは「アラビアのロレンス」(1962)を連想させる。

 稲塚権次郎は1897年、富山県東礪波郡城端町(現在の南砺市)の貧しい農家の長男として生まれた。富山県立農学校(現在の南砺福野高校)を首席で卒業した彼(学生時代:長村航希)は、恩師から贈られたダーウィンの「種の起源」に感銘を受ける。

 本家の援助で東京帝国大学農学実科(現在の東京大学農学部)に進学してメンデルの遺伝法則等の育種学を学び、上位の成績で卒業。1918年に農商務省(現在の農林水産省と経済産業省)に入省した権次郎(公務員時代:松崎謙二)は、秋田県大曲の農事試験場陸羽支場に赴任し、イネの育種に携わることになる。

 東北地方のイネは当時、「亀の尾(4号)」と「愛国(陸羽20号)」という品種が主に栽培されていた。「亀の尾」は食味はよいが病気に弱く収量が少ない。「愛国」は逆に耐病性があり多収だが、粒揃いが悪く味も誉められたものではなかった。

 陸羽支場ではこの2つを交配させ、いいとこ取りを目指した「陸羽132号」が育成された。この品種選抜が権次郎の最初の仕事であった。

 イネが開花する朝にピンセットでめしべに花粉を付け、他の花粉が付かないように1株ずつ袋をかけ、ノートに記録してゆく。毎日観察し、自家受粉してしまった株は選り分けるといった手間のかかる息の長い作業を権次郎は根気よく続け、ついに「陸羽132号」を完成させる。

 故郷に残してきた父母のような貧しい農家を救うためには、おいしくて収量の多いコメを作って収入を増やすしかないという思いが、彼のモチベーションとなっていたのである。

表1 良質水稲品種の基礎を築いた「水稲農林1号」の系譜。

表1 良質水稲品種の基礎を築いた「水稲農林1号」の系譜。

 育種にのめり込み過ぎて人付き合いの悪い権次郎を心配した上司の永井武次郎(杉本凌士)が、彼を趣味の謡の会に連れ出す。権次郎はそこで生涯の伴侶となる佐藤イト(野村真美)と出会い、故郷で祝言を挙げる。

 さらにおいしく収量の多いコメを目指して育種に取り組んでいた1926年、権次郎は岩手県農事試験場へ異動し、コムギの育種を担当するよう命じられる。イネの育種の機会を奪われ失意に沈む夫をイトはピクニックに連れ出し、好物の椎茸と筍の煮込みの入った弁当を振る舞い、彼の気持ちを少しでも和らげようとする。その甲斐あって権次郎は心機一転、コムギの育種に取り組むことを決意するのだった。

 新たなイネの研究は、新潟県農事試験場の並河成資と、権次郎の農学校の後輩にあたる鉢蝋清香に引き継がれ、その成果は1931年、「陸羽132号」と「森多早生」を交配させた「水稲農林1号」として結実することになる。寒さに強く、早生で食味がよく多収の「水稲農林1号」は、東北地方の冷害に耐え、戦中・戦後の食料生産に貢献することで、多くの人々を飢餓から救ったとされている。

 そしてこの「水稲農林1号」から「水稲農林100号」(コシヒカリ)や「水稲農林150号」(ササニシキ)といった良食味の後継品種が生まれたのである(表1)。

執筆者

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。