トニックウォーターと言うと、洒落たバーに入ってきたビジネスマンがジンと合わせて一杯目に頼む、スタイリッシュな飲み物というイメージがある。その延長から、日本に入ってきた時期も戦後になってから……と思う人も多いだろう。筆者も、ジンはともかく、トニックに関しては最近になるまでそんなイメージを持っていた。
幕末に上陸したトニックウォーター
しかし、さまざまな資料に当たってみると、トニックウォーターをはじめ日頃我々がバーで見かける各種の炭酸飲料が入ってきた時期はもっと前であり、その当時の話は今日の我々が抱く漠然としたイメージを次々に覆していく。
たとえば、日本で初めて普及した炭酸飲料がトニックでもジンジャーエールでもなく、さらにサイダーやラムネでさえもなく、実はジンジャービアだったと言えば驚かれる読者がほとんどだろう。今ではサイダーはもとよりジンジャーエールよりはるかに流通量が少ないジンジャービアが、日本の炭酸飲料の先駆けであったことを示す興味深い資料がある。少し長くなるが、明治43(1910)年の「飲料商報」に掲載された東京帝国大学教授下山順一郎の講演を引用しよう。
「千七百九十二年から九十四年の間に於て始めて英吉利で重炭酸曹達と酒石酸とよくして沸騰散といふものを拵へた、俗に所謂ジンジンビヤと云ふものを拵へました(中略)それから段々此淸涼飲料が發達致しまして、今日に至りましては彼の如きものは殆ど顧るものはなくなって、ラムネと云ふものが行はれて來、又シャンピンサイダーなどが世の中に現はれて來るやうになったのである」(後略。英吉利は英吉利。今日とは1910年)
清涼飲料史を調べると必ず出てくるフレデリック・ファー商会が長崎に支店を設けたのは万延元(1860)年で、翌年には日本の対外貿易の中心となった横浜に支店を移している。横浜に支店を移すと同時にジンジャービアの販売を始めた同社は、3年後の元治元(1864)年にはソーダと併せてトニックウォーターの広告を英字新聞「The Japan Herald」に出している。
幕末の時点で、日本にはジンもトニックウォーターも入っていた。実際に帝国ホテルには九重商会の、ゾルゲの話で出てきたドイツ・クラブ(第11回参照)にはノース&レー商会のトニックウォーターが入っていた記録が大正2(1913)年8月の「飲料商報」に残っている。
戦前には飲まれることのなかったジントニック
では、戦前の日本でジントニックが飲まれていたか、というと話が違ってくるからややこしい。本稿で頻繁に引用している昭和11(1935)年の「大日本基準コクテール・ブック」にはジンフィズの記載はあるがジントニックは出てこないし、筆者の手元にあるあまたの戦前カクテルブックにもジントニックは見当たらない。
さらに、戦後のカクテルブック、たとえば戦後20年以上が経過した段階で出版された、1000以上のレシピを掲載したカクテルブック、たとえば「カクテルの作り方1200選」(昭和41年発行 日本バーテンダー協会)にもジントニックは見当たらない。
個人的に古いカクテルブックを蒐集されて精力的に新情報を更新されているうらんかんろ氏の「【全面改訂版】カクテル--その誕生にまつわる逸話」は、日本で初めてジントニックを掲載したのは昭和30(1955)年の壽屋カクテルブックだとされている。
もちろん、客が望めば帝国ホテルでジントニックを飲むことは可能だったのだが、日本でジントニックが一般に認知されたのはさほど昔の話ではない、かなり新顔のカクテルに属するのだ。
イギリスのインド統治がきっかけでジントニックが誕生したことは先述した(第61回参照)。そして、ジンもトニックも幕末から輸入されていた。それでは、なぜジントニックが戦前の日本で普及しなかったのか? その答えのヒントとなるものは、元治元(1864)年に「The Japan Herald」に出されたフレデリック・ファー商会の広告にあった。
その広告には医者が推薦文を出していて、「うちの患者にも飲用を進めています」とある。つまり、当時の日本での捉え方としては“トニックウォーター=薬用”のイメージが強く、味を求めてジンにトニックウォーターを加える発想そのものがなかったのではないか。
ジンもトニックウォーターも幕末から輸入されていたにもかかわらず、戦前の日本でジントニックが普及しなかった背景には、そうした事情があったと筆者は推測している。
こうして戦後も大きな動きがなかったジントニックを、若者が口にするスタイリッシュなカクテルに持ち上げたのは、「戦争を知らない子供たち」と呼ばれる若者たちの時代を経て「新人類」と呼ばれるほど価値観の異なる若年世代が誕生したころに脚光を浴びた二人の作家だった。