捕鯨を続けるナショナリズム以外の理由は何か?

トヨタ自動車のリコールについて、一部ではまたぞろ“アメリカの陰謀”とのささやきが湧いている。グローバル化した分野では、ビジネスの競合関係や種々の問題を国同士の敵対関係に置き換えて語られることが起こりやすい。しかも、陰謀論となると、舞台裏でどのような力が働いているかは見えない世界の話なので尾ひれが付きやすく、ブレーキはかかりにくい。

 これを放置すれば、やがて歪んだナショナリズムを育て、国民的な感情の対立になっていき、本来は合理的に解決可能かつ解決すべき事柄を見失わせてしまう。もともとの当事者も、彼らを見守る国民も、この種の流れの発生には十分警戒していなければいけない。というのは、私たちの国はすでに行き着くところまで行ってしまった問題を抱えているからだ。

 太平洋の彼方南方に、砲を備えた日本の船が乗り出している。それに対して外国の船が接近し、互いにあの手この手で小競り合いを繰り広げてきた。1月には遂に相手の船が沈没(大破した後放棄された)する事態に及んだ。これに関する新聞やテレビの報道は、日本側の発表に基づく内容が大半。多くの評論家やコメンテーターは、我が国の行為の正当性を主張する一方、外国が過去に行っていた同じ行為を批難し、外国からの干渉を許すなと息巻いている。そして多くの国民がナショナリズムを刺激され、許すな、負けるなの大合唱。太平洋戦争のときと同様の異常事態だが、言うまでもなくこれは日本の捕鯨船とシー・シェパードとの攻防を巡る話だ。

 どの国の国民も、あるレベルまでのナショナリズムは持っているべきだと私は考える。ただし、各々が自分を見失うほどのナショナリズムは本人にとっても、社会にとっても有害なものになる。それは私たちの先の世代が戦争の時代を通じて学び、伝えてくれたことだし、今日の世界にも反面教師たる国があることを私たちはよく知っている。愛国心は、広く公平に情報を求め判断する態度と共存していなければいけない。

 その大事なことが捕鯨に関する話題では、顧みられていない。と言うのは、日本の捕鯨に関する以下の事柄について、国民的な議論、評価、判断は行われていないと思われるからだ。即ち、日本市場は現在および将来においてクジラを物質的な資源として求めるかどうか、調査捕鯨の目的は日本の産業界や消費者の要求に基づいたものと言えるか、鯨類の致死的な調査手法とサンプルの量は適切であるのか、調査捕鯨で得られた知見はどのようにどの程度価値があるものなのか、調査捕鯨を維持するための直接・間接の国家予算は適切で有効に使われていると言えるか、また遠洋で行うノルウェー式捕鯨は日本の伝統文化とどのようにどの程度関係があるのか、など。そして、それらを踏まえた上で、捕鯨にこだわるために犠牲にしてもいいことと犠牲にしてはいけないことは何か、そのことを諸外国の意見や動きとは別に、日本国民が自分たちの選択として検討できているかどうか。

 私は、それらの議論は十分ではないと見ている。そもそも鯨肉消費や捕鯨に興味を持っている消費者が少ない。にもかかわらず捕鯨ありきの論調が突出するのはたちの悪いナショナリズムによるもので、ほかならぬシー・シェパード(彼らのコンセプトと行動を私は支持しない)がこの思潮の盛り上がりを助長している。まさにベビーフェイスとヒールという役者が揃い、プロレス興行は大成功といった様子を彷彿とさせる。プロレスは娯楽で悪いものではないが、国の事業がこのような図式にはまり、国民のナショナリズムを刺激し、また外交問題に発展しているというのはいかがなものか。

 しかも、私たちは広く情報を取る機能への関心、評価のための道筋も手放してしまうかどうかの瀬戸際にある。一昨年、2人の市民(共にグリーンピース・ジャパンの職員)が、日本の調査捕鯨船乗組員が調査副産物である鯨肉を横領したのを内部告発によって突き止めたとして、問題の品物を証拠品とすべく宅配便の支店から持ち出した。そして記者会見を開いた上で、調査捕鯨関係者らを業務上横領容疑で検察に告発した。ところが東京地検は調査捕鯨関係者らを不起訴とし、一方警察はこの告発者2人を窃盗および建造物侵入の容疑で逮捕、起訴した。この公判はつい10日前に始まったばかりだ。

 私はグリーンピースのさまざまな行動や考え方について、意見の合わない点が多い。しかし、この2人の行動と勇気は評価されてしかるべきことだと考えている。私の身の回りの人たちにこの件について意見を聞くと、「無断で立ち入って盗んだのだからクロ」という人が多いが、ことはそう簡単な話ではない。

 もしこの2人が警察官や検察官であったら、やったことは令状なしでの捜査であり、許されることではない。しかし、市民には「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」がある。これは憲法が保障し、日本が批准している「国際人権規約」にも書かれている表現の自由だ。これは無制限に許されるものではなく、「他の者の権利又は信用の尊重」「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」の目的のために必要とされる場合に限られる。この2人の場合は、「国営事業における大きな不正をあばいた」こと、その表現の自由に基づいた行動と主張している。

 記者の職場では、「書く自由はあるが、取材する自由はない」などと言われることがある。実際には書くことにも制限はある。例え真実であっても書くことが公益のためと言えないと判断されれば「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損」した罪に問われることがある。そして、それにもまして取材、情報を取る行動はさまざまな壁を乗り越えなければならない。相手の了解なしに質問責めにすればもちろん追い返されるし、勝手に建物に入って写真を撮れば止められるのはもちろん、そもそも無断で敷地に立ち入れば追い返される。制止に従わなければ当然警察沙汰になる。通常は、一般の法律と公序良俗にかない、マナーを守れるようでなければ、そもそもネタにたどり着けない。私のようにビジネス関係の記事を書いている人間は、おおむねこの範囲で行動することになる。

 しかし、公権力や社会に対して大きな影響力を持つ組織や人の不正を見つけ、確認し、伝えるには、この範囲を越えざるを得ない場面がある。そのような事柄は、相手が一般の人々から厳重に隠そうとしているはずだから当然だ。そのとき記者はどうするかと言えば、不正の存在を確信した上で体を張って賭けに出るしかない。公益のためとなる情報につながる現場、現物を押さえるために、“この場合、どこまで許されるか”を考えながら法令を越えた行動に出ることはあり得る。その結果、記者のやったことを罰するか否かは、その都度社会ないし司法が判断することになる。

 鯨肉横領の証拠となるはずと考えた物品を押さえた行為は、まさにこれに当たる。この2人は記者ではないが、表現の自由はもちろん記者だけのものではない。私は彼ら2人は価値ある情報をもたらしてくれたと見ているが、さて気になるのは検察が調査捕鯨関係者を不起訴としたことと、彼らがもたらしてくれた情報の価値に気付いていない国民が多そうだという点だ。行為の目的の正当性がどのように判断されるか。

 今は審理を待つしかないが、この判決とそれに対する社会の反応は、私たち国民の国の事業の適正さに対する関心度の深さ・浅さ、横領について不起訴を決めた検察の判断の適否に対する関心度の深さ・浅さ、そして表現の自由という私たち自身の権利に対する理解度の深さ・浅さを計る材料の一つになるだろう。その結果、もし私たちの目がナショナリズムによって容易に曇り、人権に対する理解にも欠けていることが明らかになるのだとしたら、私たちはこの60数年間何をやってきたのだろうか。

 なぜ今回捕鯨についてここまで記したかと言えば、ナショナリズムが先に立ち、一人ひとりの情報収集が甘く、判断も合理的にされていないと考えられる話題が、食に関してはほかにたくさんあるからだ。たとえば食料自給率、輸入食品、有機農業、食育、遺伝子組換え作物などなど。これらに関するさまざまな人の主張に、いかに偏った国際関係論が含まれているか(ないしは含まれていないか)、よくよく吟味されたい。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

齋藤訓之
About 齋藤訓之 302 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所客員研究員。昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。日本フードサービス学会会員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。東京栄養食糧専門学校非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →