小澤酒造で学んだ醗酵の妙と“かたち”

冬の薄明
冬の薄明(東京・青梅市で)

ワインのリーファー輸送を業界に提案した大久保順朗氏が、リーファー輸送が必要と考えるに至ったワイン物流の問題の本質を語る。今回は、東京・青梅の小澤酒造で酒造りを経験した1シーズンと、そこから学んだことをお送りする。

清酒の蔵に学ぶものありと仏シシェル社

 ゲイマー氏が他界してすぐのころと記憶するが、日本の清酒業界は地方蔵元の倒産続出の時代を迎えていた。国税庁は蔵元の転業活性化モデルを模索し、日本酒蔵の醸造設備がワイン蔵への転用が可能であるかを見きわめるため、フランス・ボルドーのシシェル社に調査を依頼した。

 シシェル社の回答は驚くべきものだった。“手付かずで転用可能であり、清酒の蔵から学ぶものはあっても、こちらが教えられるものは何もない”といった主旨の記事が専門紙に掲載された。

 私は、父に頼み、東京・青梅の小澤酒造に連絡をとってもらった。

 小澤社長(現会長)に「酒造りを体験させて欲しい」とお願いすると、「造りの最盛期になったらおいで。母屋に泊まって好きなだけ見学すればいい」と言われた。

「いや、そうではなくて、杜氏さんたちと寝泊りして洗い(準備段階)から始まって、最低でも造りの一工程を体験したいんです」

「物好きだねえ! つらい仕事だぜ! それに杜氏たちには迷惑な話だ。一応話してやるがね!」

 そんなやりとりがあって、事前準備で上京する杜氏頭に会う段取りをつけていただいた。

 頭は「これ以上の迷惑はない」といった顔つきで「全員大部屋で一緒に寝起きするんだぜ。勤まるかい?」と言う。

「大丈夫です。ただ、朝起きるのが苦手なんで、引っ叩いてもいいから起こしてください。絶対文句は言いません」と言った。すると、「そんなことは心配いらねえ! でも皆の足手まといになったら引き揚げてもらうよ」と言って、ニヤリと笑った。

酛屋と麹屋の補助という大役をもらう

冬の薄明
冬の薄明(東京・青梅市で)

 10月中旬、頭と見習い(と言っても年は中年層)が蔵入りし、私も参加した。

 宿舎の大部屋に入ると、何に使うものか、中央に2本の丸太が横たえてあった。身支度をして、早速木製の桶や櫂を引っ張り出し、竹のササラで洗いを始める。洗剤は使わず、冷たい水だけで洗って、日なたで天日干しする。休憩時間は桶や櫂の間で日なたぼっこしながら舟を漕ぐ。桶や櫂への触りは厳禁であったが、何とも心地よい居眠りであった。

 就寝時になって、2本の丸太の役割と、頭の「そんな心配はいらねえ」の言葉の意味がわかった。丸太の両側に布団を敷き、丸太には薄敷きをかけて枕とするのである。2本の丸太に全員の頭が載る。起床時は2本の丸太を木槌で軽く叩くだけで、起きそびれる人間はいない。

 ホーローのタンクはブラシで隈なく丹念に洗い上げ、最後は熱湯をかけて消毒する。5日目ころだったろうか? 杜氏たちの育てた大量の新米が越後・魚沼から届いた(小澤酒造の杜氏集団は越後杜氏だった)。同時に第2陣のスタッフが到着して精米を始めた。ほどなく杜氏集団全員が蔵入りし、酒蔵側スタッフとの顔合わせ、小宴会、釜の火入れ式を経て、本格的に仕込みがスタートした。このころには、頭も私の本気を汲み取ってくれた。基本は酒母長付きで、麹米造りも応援するという役割をいただいた。

 酒母は日本酒造りの要である。大型のタンクで醗酵させる前に、コントロールしやすい小さなタンクで目的の酵母を増殖させ、醗酵の失敗を防ぐ。これは目指す香味を確実に得るための重要な作業である。当然、酒母室の立ち入りはスタッフの間でも制限される。通常は頭と酛屋(もとや。酒母長)が交代で不寝番をして育てるらしい。その大役の補助をさせてくれたのである。

「ブドウ踏みはおぼこ娘に」の秘密(?)

 得難い経験だった。酵母の種類、醗酵温度、醗酵温度の上下動幅の違いなどで、全く異なった香味が発生する。そのことを目の当たり、五感で知ることができた。

 麹屋(麹室長)には「お前の垂らす汗がいい酒を造ってくれる。汗のかけなくなった俺たち年寄りだけで造った酒はギスギスしていけねえ」と言って、文字通り麹米に滴り落ちる私の汗を歓迎してくれた。

 最初の酒が仕上った時、麹屋は「やっぱりうまいな! こんな酒は久しぶりだ!」と満足げだった。私には真偽のほどはわからなかったが、欧州のワイン造りの言い伝え――ブドウ踏みはおぼこ娘にさせろ――が思い出され、「あれはおぼこ娘の足裏の柔らかさよりも汗が必要だったのか?」と思ったものだ。

 また、その年はたいへんな暖冬の年で、酒母造りは大忙しであった。日中だけでなく真夜中でも気温が上がり、酒母の湧き上りが強くなりすぎる(醗酵温度の上がりすぎ)。氷を入れたステンレスやアルミの筒を酒母タンクに差し入れ、揉み込んで冷やす作業が続いた。酒母タンクの液面全体が泡立ったり、液面中央に黄色いリングが出来上がったら手遅れの事態である。

 酒母長と交代で分析室の長椅子で仮眠をとり、酒母タンクの間を徹夜で巡回監視をする日が続いた。

 酒母長は作業をしながら故郷魚沼の話をしてくれた。コシヒカリを育てる仕事の中で、また野山の様子で天候異変(温暖化)を感じるのだそうだ。酒母長が駆け出し(新米)のころは、小澤酒造へ酒造りに来ている期間にも、交代で魚沼に雪下ろしに帰らなければならなかった。それが最近はないと。

 この小澤酒造での貴重な体験のおかげで、ワインの香りから醗酵温度やその上下動幅に見当が付けられるようになった。また、手造り依存度が高い酒なのか? オートメーション化が進んだ酒なのか? そういったことを嗅ぎ分けるヒントももらえたと思っている。

守るべき“かたち”もあるのではないか

 蛇足ながら、翌年の話だ。私は、舟口(槽口=ふなくち)から出る微妙に白濁した搾りたての酒の試飲が忘れられなかった。それで杜氏頭に商品化をねだった。

 杜氏頭は、「うまいのはわかっているが、新酒の酸は歯のエナメル質を溶かしてしまう。お前は俺や酛屋の歯を見て知っているだろう。そんなものを商品化するのは反対だ」と言う。私は「頭! お客さんは年に一度しか飲めないんだよ! 歯なんか溶けないよ」と反論した。そうして「澤乃井しぼりたて生」は誕生した。

 舟口酒の解説をしておこう。醗酵の終わった酒を細長い布袋の3分の1程度に詰め、その袋を三つ折に畳んで、木製の四角い箱の中に敷き詰める。いっぱいになったら落とし蓋をして蓋の上に積み木をし、その上に一方を縛って固定した太い竹天秤を渡し、天秤の先に重石をぶら下げて加圧する。

 木製の箱の短辺の底近くには横穴がうがたれていて、布袋から搾り出された薄く白濁した酒がここから流れ出る。この「木製の四角い箱」が「舟」と呼ばれる昔の搾り機である。そしてその「横穴」が「舟口」であり、流れ出た酒が本来の「舟口酒」だ。

「ふなぐち菊水一番しぼり」など、現在の「舟口酒」は白濁していない酒が大半である。また、白濁している「舟口酒」も舟搾りされたものではなく、透明な酒にすりつぶした酒粕を溶かした代物が多い。通常の濁り酒も、同様の手法で造られたものが多いのが現状である。一時期はその酒粕が姿を消した時期もあった。

 酒造りの技術革新は目覚しい。とくにろ過・清澄システムの激変は凄まじい。しかしその技術変更の中で、再現不可能になりあるいは消滅してしまう“かたち”があることは、味覚の喪失であり、寂しいことだ。

About 大久保順朗 82 Articles
酒類品質管理アドバイザー おおくぼ・よりあき 1949年生まれ。22歳で家業の菊屋大久保酒店(東京都小金井市)を継ぎ、ワインに特化した経営に舵を切る。「酒販ニュース」(醸造産業新聞社)に寄稿した「酒屋生かさぬように殺さぬように」で注目を浴びる。また、ワインの品質劣化の多くが物流段階で発生していることに気付き、その改善の第一歩として同紙上でワインのリーファー輸送の提案を行った。その後も、輸送、保管、テイスティングなどについても革新的な提案を続けている。