X 帝国ホテルのマウント・フジ(12)

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)

「洋酒混合法」(大阪登章、1929、バー・パリジヤン)
「洋酒混合法」(大阪登章、1929、バー・パリジヤン)
大阪登章
上掲書にある大阪登章のポートレート

富士屋ホテルの専務取締役山口正造が、失火直後の帝国ホテルの支配人として呼ばれて着任した10カ月間の間に、世界一周旅行団が日本にやって来ることになった。その歓迎式典のためにマウント・フジを考案したのが、東亜ホテル(神戸)から来たチーフ大阪登章であったはず、というのが前回までである。問題はこの後だ。

考案者と発祥地が分かれた結果

 山口はウォルドルフ・アストリア(The Waldorf-Astoria)を見ているから、バーやカクテルがホテルにとってどういう意味を持っているかを理解していた。そして、マウント・フジは飽くまで自分の発案であるという思いが強かった。だから、彼は帝国ホテル支配人を10カ月で退任すると、“考案者として”マウント・フジを富士屋ホテルに持ち帰ったとしても不思議はない。

 大阪が著わしたカクテルブックにも、大阪の後に帝国ホテルのチーフバーテンダーを戦前長きにわたって勤めていた浅倉信次郎のカクテルブックにも、帝国ホテル版マウント・フジの記載がないことは、これで説明がつく。

 ただし、マウント・フジが初めてお披露目されたのは帝国ホテルでであったという事実は残ったのである。

 このように考えると、帝国ホテル版マウント・フジが考案されたのは山口が帝国ホテル支配人だった大正11(1922)年6月~大正12(1923)年4月の10カ月間以外ではあり得ない。そして実際にレシピを考案した人物は、山口が支配人だった期間に帝国ホテルのチーフ・バーテンダーだった大阪登章以外にはあり得ないということになる。

 なぜ帝国ホテルのマウント・フジ伝承が「世界一周旅行団歓迎のために大正13(1924)年に考案された」となって大阪の名前が欠落したかについても、これならば説明がつく。山口は帝国ホテルにとってはあくまでピンチヒッターであり、チーフ・バーテンダー大阪の在籍も1年に満たない。だから、山口の後任の犬丸徹三は、次にチーフとなった浅倉信次郎に“マウント・フジを超えるカクテル”の考案を命じたはずだ。それが昭和5(1930)年の帝国ホテルのメニューに記載されていた「Imperial Hotel Special cocktail」だったのではないか。

昭和5年(1930)の帝国ホテルのドリンクメニュー
昭和5年(1930)の帝国ホテルのドリンクメニュー。右上の「Imperial Hotel Special cocktail」が何であるのか気になるが、卵白・生クリーム使用のマウント・フジが卵白のみ使用の「Million Dollar Cocktail」より安いことはないだろう。

 であれば、帝国ホテルのバーで外国人の客にはわかるようにバーテンダーが立つ背面の壁に「Mount Fuji」を表示しながら、戦前戦後の一時期、帝国ホテルのワインリスト(ドリンクメニュー)からはこのカクテルが落とされていた理由が説明できる。

 しかし、海外から来る客は帝国ホテルに来ると「マウント・フジ」を頼んでくる。ことここに至って帝国ホテルもマウント・フジを歴史の奥に仕舞い込むことを諦めてホテルのオリジナルとして再び表舞台に立たせようとしたのではないか……という仮説が出来てくる。そこで、マウント・フジをワインリストに復活させた後、本来の考案年である大正11年ではなく、犬丸徹三支配人時代を意味する大正13年に誰かが書き換えたのではないか、というのが筆者の辿りついた結論である。

JBA版赤富士には浅倉がかかわったはず

 そして、この説によるならば、「なぜマウント・フジはJBA版と帝国ホテル版の2つがあるのか」への答えも示唆していると筆者は考える。

 「赤くなかった“赤富士”」(4)で記したとおり、1933年3月のある日、マルティニ・エ・ロッシ社の輸入代理店だった横浜コードルリエ商会から、日本バーテンダー協会の品川潤に、国際カクテル・コンクール参加への打診があった。ただし、参加するには、翌日にはレシピを発送しなければならない。そこで品川は「臨時役員会を招集した」と戦後証言している。

 急いで役員会を招集するなら、数寄屋橋のJBA事務所からも近く、当時どこにでもあるわけではなかった電話がある帝国ホテルに、その一報が入ることは間違いない。この「臨時役員会」には浅倉信次郎も関与したと考えるのが自然、いやむしろ、列席した人物としては最有力候補だろう。

 しかも、JBA版(昭和8年)の前、大正11年からある「マウント・フジ」の名前を使えるかどうかは、帝国ホテルの浅倉が了承するかどうかにかかっていたはずだ。そしてこのとき、帝国ホテルには、既存帝国ホテル版マウント・フジは「頼まれれば出すが、看板にはしたくない」事情があった。とすれば、いずれは帝国ホテル版マウント・フジを超えるオリジナル・カクテルを作るつもりだった浅倉が、出来立てのJBA版のオリジナル・カクテルにマウント・フジと名付けさせた陰の主役だったとさえ言えるのではないか。

 一方、バーテンディングをホテル業務の一環としてある意味でドライに捉える山口は、マウント・フジの考案者は自分だという意識があるから、それを富士屋ホテルに持ち帰ってメニューに記載することには何の逡巡もなかっただろう。しかも東京から遥か箱根にいて、JBA版マウント・フジが数寄屋橋で考案されてマドリードにレシピが発送されたことなど知らない。

 こうして、日本に2つのマウント・フジが並立して現在に至るというのが、真相なのではないか。10年以上の長きにわたってマウント・フジにまつわるいくつもの謎を追い続けてきた筆者がたどり着いた結論は、あらかたこういうことになる。

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
石倉一雄
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Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。