X 帝国ホテルのマウント・フジ(10)

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)

 明治7(1874)年、アメリカ西海岸のヴァレーホ(Vallejo)から横浜にバーテンダーがやって来た。英字紙によれば2つのホテルに1人ずつ別々のバーテンダーが来たことになっているのだが、掲載されたイラストを見る限りこの2人は同一人物の可能性が高い(「横浜・カクテルことはじめ」(4)明治7年横浜のフレア・バーテンディング参照)。

帝国で考案し富士屋へ持ち帰った

 このカラクリは、電信のない時代に、アメリカ西海岸のバーテンダーを日本へ招く手はずを取ったインターナショナル・ホテル支配人カーティスが、その後ジャパン・ホテルの経営に移ってしまったことにある。「バーテンダー招聘プロジェクト」の主体が“考えた本人=カーティス”と“招いたホテル=インターナショナル・ホテル”とに分かれてしまい、その結果、招きに応じてはるばる太平洋を渡って来たバーテンダーが、両ホテルを掛け持ち営業することになったのでは?――というのが筆者が到達した結論だった(「横浜・カクテルことはじめ」(5)ヴァレーホ・ジョーを呼んだ男参照)。

 今回の場合も、あのケースに似てはいないだろうか。山口が帝国ホテル支配人だった10カ月の間にやって来た世界一周旅行団のために、彼が帝国ホテルのチーフ・バーテンダーにオリジナル・カクテルの考案を命じ、その後山口が富士屋ホテルに戻ったために、富士屋ホテルと帝国ホテルの双方が、自らのオリジナルであることを標榜したのだとすると、このカクテルが両ホテルに存在する理由が納得しやすくなってくる。

 そればかりか、この仮定を前提として見ていくと、「世界一周旅行団が云々」と子細な成立事情が残っていながら、肝心の考案したバーテンダーの名前が消えた理由さえ浮かび上がってくるとしたら、どうだろう。これには、富士屋ホテルの独特のオペレーションの考え方を説明する必要がある。

富士屋ホテルの人事思想

 富士屋ホテルには昭和5(1930)年に発足した「富士屋ホテルトレーニングスクール」というものがあった。校長は山口正造で、講師には各部署の主任が当たった(山口由美著「箱根富士屋ホテル物語」)。講座は、ホール・食堂・料理場・倉庫・庶務・帳場・案内所・客室・洗濯・酒場・売店・庭園の13があり、その中の6講座以上を修めて修業年限3年を務めた者に卒業証書を与えるというシステムで、このスクールの基本は現在の立教大学観光学部に引き継がれている。

 このスクールの形が示唆するものは、山口流ではホテルのバーテンダーは専従者とは考えられていないということだ。実際、今回の連載のために富士屋ホテルにうかがったところ、山口正造の思想を受け継いでいるからなのか、富士屋ホテルのバーカウンターに立つバーテンダーは、ホールや厨房も一通り経験しているという。

 筆者のように酒のことばかり書いている人間としては、ホテルのバーテンダーというとロンドンのサヴォイ・ホテルのハリークラドックや世界初の女性バーテンダーであるエイダ・コールマンを想像するから、ホテルのバーテンダーという仕事は専業で行うものであるとばかり思っていたのだが、そうではないのが山口流である。

 つまり、山口正造の目から見れば、バーテンディングはホテルマンにとって必要な技術の一つであり、そこにスター級の人間を招聘したりする必要はなく、むしろすべてをこなせることがホテルマンとして求められる資質だ……という思想があったことがわかる。

 富士屋ホテルのWebサイトの「富士屋ホテルの味」というページからも、その思想が受け継がれている様子がわかる。このページの説明文では、「富士屋ホテルが誇るフランス料理は、先代の料理長より受け継がれるレシピをもとに……」のように書かれ、他のホテルのようにシェフやバーテンダーの写真や固有名詞はない。あくまでも「富士屋ホテルとしてのサービス」というスタンスなのだ。

 翻って犬丸の帝国ホテルには固有名詞の文化がある。犬丸時代の帝国ホテルで誕生した名物料理には、たとえば飛行船ツェッペリン号が来日したときの食事は第七代総料理長高木米次郎、シャリアピン・ステーキならニューグリル料理長高山(後に筒井)福夫、バイキング(スモーガスボード)は第十一代総料理長村上信夫というように、考案者の名前がはっきり残されている。

 この“富士屋カラー”と“帝国カラー”の違いを考えれば、“富士屋カラー”で山口が経営していたわずか10カ月の間にマウント・フジが作られた場合、それを考案したバーテンダーの名前が残っていないことには納得がいくのだ。

考案したバーテンダーは誰か

 とは言え、「ここまで来たらマウント・フジを考案したバーテンダーの名前を知りたい」と思うのが人情だ。冒頭で述べたように、帝国ホテルに歴代料理長の名前は残っているが、歴代のチーフ・バーテンダーの名前は残っていない。戦後間もない頃からチーフを務めた日山理策以降は足取りを辿ることも比較的容易だが、戦前に関しては浅倉進次郎がチーフだったことが当時を知るバーテンダーの証言で得られるくらいで、山口支配人時代となる大正11(1922)年のチーフ・バーテンダーの名前を知っている方は、日本のどこにもいないはずだ。

 そこで10年以上にわたって砂浜の砂粒を探すに似た作業をしてきた筆者のノートから、「帝国ホテルバーテンダーの系譜」をFoodWatchJapanでお伝えすることにする。

石倉一雄
About 石倉一雄 128 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。