X 帝国ホテルのマウント・フジ(7)

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)

金谷カテージ・インの創業からややあって明治11(1878)年、箱根・宮の下に開業した富士屋ホテルは、そのルーツを元治元(1864)年に開業した外国人向けの娯楽施設「神風楼」(横浜)に辿ることができる。富士屋ホテルの初代山口仙之助は明治18(1885)年の改築でホテル内に酒場(バー)を設けた他、当時はまだぜいたく品だったガラスを多用して採光に意を使ったラウンジを作るなど進取の気象に富んだサービスが外国人に好評を博した。

 仙之助は自社の経営ばかりでなく、日本のホテル業という分野の先駆者としての意識が高く、明治39(1906)年には自らが発起人となって同業者組織である大日本ホテル業同盟会を発足させている。

貴公子にして風雲児・山口正造

 さて、日本の観光ホテルの草分けとも言える金谷ホテルに生まれ、婿養子として富士屋ホテルに入ったのが山口正造だった。いわば“観光ホテルの貴公子”というほどの環境に生まれ育った正造だが、25歳で富士屋ホテルに後継者として迎えられるまでの足跡は、“貴公子”と言うよりは“風雲児”に近い。

 英語を巧みに操るだけでも当時としては凄いことだが、彼の抜きん出た才能はそんなところに留まらない。イギリスの労働者訛りコックニーと上流階級のクイーンズ・イングリッシュを使い分けるかと思えば、アメリカ英語でジョークも語る。“英語の達人”ならば青白い文学青年かと思うと、海外の雑誌に「ロシア人拳闘家(ボクサー)を打ち負かした日本人」として写真が掲載される。はたまた、ロンドン娘とロマンスに落ちたかと思えば、有栖川宮が訪英した際には柔道を披露し、ロンドン警察やオックスフォード、ケンブリッジで柔道を教え、22歳の若さでロンドンに柔道の学校まで構えていたという。

 そんな、一言では語れない人物だった正造の異色さはこればかりではない。そこらの安直な冒険活劇や少女漫画の設定でも無理がありそうなことを、正造は実際にやってのけていたことになる。

 17歳で初めて単身アメリカに渡ったときには、サンフランシスコでも一流のオクシデンタル・ホテルに泊まっている。父親から渡された金では不相応な高級ホテルにさすがに不安になった彼に、通りがかりの親切な日本人が安い宿を紹介してくれたという。その後の武勇伝は上掲書をご覧いただくとして、彼が普通では望めそうもない運と強引さで、10セントの安宿で寝起きするアメリカを皮切りに、イギリスに渡り、駐英日本大使館のボーイとなり、ついには貴族のパーティーに招かれる紳士として扱われるようになるまでの経験が、帝国ホテル版マウント・フジ誕生エピソードを探る上で、また一つの伏線となってくる。

欧米を知り尽くした正造の商才

 この辺の話は「箱根富士屋ホテル物語」(山口由美著)に詳しく、今回の拙稿でも富士屋ホテルと山口正造に関する部分は、同書と山口正造本人の回顧録に依っていることをお断りしておく。なお、上掲書を著わした山口由美氏自身が名前から察せられるように正造の血縁であることもあり、身びいきと取られることを避けるためであろう、記述はかなり抑え目になっている。

 それでも、その中で筆者が注目したのは、彼が欧米の庶民の暮らしから貴族が集まる社交界までの広い海外経験があったという点だ。そのプロセスで、彼は世界一周旅行団に参加するような富裕層の嗜好を把握していた。さらに、駐英大使館を紹介状もなしに訪ねて(「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」(2)を思い出していただきたい。大使館や外交関係では紹介状が極めて重要な意味を持つ)、最初は「大使館は職業斡旋所ではない」と断られながら、駐英大使に直談判して首尾よくボーイに採用されるほど押しが強く、同時にきわめてプライドが高く、他人の手柄を横取りする暇があったら自分で功を取りに行くタイプの性格であったことが、わかるのである。

 ロンドン娘とのロマンスは実を結ぶことなく、結婚の許しを求める手紙に「家名を汚す気か」と激怒する父・仙之助の元に正造が帰国した明治40(1907)年、彼は富士屋ホテルの取締役に就任する。

 取締役に就任してからの正造は、欧米で見聞してきた成果をいかんなく発揮し始める。自社で自動車会社を設立してオランダ公使払い下げの7人乗り自動車を含めて3台の自動車を送迎用に使い始めたのが大正3(1914)年。東京に乗り合いバスが走り始めたのが大正8(1919)年だが、その5年も前に、燃料についても交換部品についても東京よりはるかに不便な箱根で走らせていたことには驚くしかない。

 さらに、大正8年には富士屋自動車は36台を揃える陣容だったというから、チェア(江戸時代、大井川の渡しに使っていた二人の人足が担ぐ蓮台のようなもの)で始まった国府津駅から富士屋ホテルがある宮ノ下までの交通の様変わりは、日本の表玄関・東京に負けまいとする正造の意識だけでなく、そのまま仙之助から正造への世代交代を象徴していたと言えるだろう。

石倉一雄
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Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。