X 帝国ホテルのマウント・フジ(2)

明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)
明治23年に開業した初代の帝国ホテル(画・藤原カムイ)

初代帝国ホテル竣工までの事情に関しては「帝国ホテル百年の歩み」に詳しいが、現在残されている設計図と当時の報道には不思議な齟齬がある。

図面に書かれなかったバー

 ドイツ人技師の軟弱地盤に対する対応不備のため、ピンチヒッターに立った渡辺譲が1カ月の突貫作業で書き上げた当時の設計図には「皿洗場」から「給仕人詰所」まで記されているのに「酒場」の記載がない。ところが、11月7日にオープンしたばかりの帝国ホテルを訪れた東京日日新聞記者の紹介記事(11月9日)には「只宿泊人の為のみならず(中略)ちょっと一杯の洋酒を飲みに行くも可なり」と書かれている。この時代の酒場は洋の東西を問わず、撞球室(ビリヤード室)がバーと兼用の場合が多かった。この流れは、拙稿既出のヨコハマ・ホテル(フフナーゲル。VII 横浜・カクテルことはじめ参照)以外にも見られ、戦前昭和のホテルにも受け継がれるのだが、この東京日日新聞のレポートでは撞球場の他に「又酒類の売場あり」と書いてあるので、独立したバーが別にあったことになる。

 案内されながら手帳に書きつけているであろう記者の説明の順番と当時の図面を照らし合わせていくと、エントランスを入ってすぐに見える、2階に上る階段手前を右に折れたところにある、設計図では「事務室」と書かれた、シングルルームより二回りほど大きい二つの部屋のいずれかがバーに充てられた可能性が高そうだ。

格式とは裏腹の苦戦

 そこではどんな洋酒が出されていたのだろう。先日投稿したウイスキーマガジンの拙稿「戦前の日本とウイスキー」でも参照した明治30(1897)年の洋酒価格表には「鹿印ウヰスキー ローマルブレンド」「アイリツシユウヰスキー 猫印」「ローヤルクラオン上等」「ローヤルクラオン虎印」「スコツチウヰスキー並等」の他に「スパニツシユポートワイン」「シエリー ヤニロ」とあるので、「BURKE’S」ブランドと推定されるアイリッシュ、カナディアン・ウイスキーとして現在も入手可能なローヤルクラウンの他にポートワインやキャップ部分を封蝋したシェリーが舶来の上等品として輸入されていた。したがって帝国ホテルにもこのあたりはそろっていたと思われる。この他にジュネバや明治9(1876)年に「勝海舟の嫁 クララの明治日記」の少女クララ(クララ・ホイットニー)が日記に書き留めたシャルトリュース、ヘネシー、ジェットのミントリキュールも、時系列から見てあった可能性が高いだろう。

 今でも浴衣で帝国ホテルのロビーを歩く人はいないだろうが、この頃の帝国ホテルは今以上に格式が高く、バーに行くためにわざわざシルクハットとタキシード姿に着替えて来る客がいたという(瀬田兼丸著「遠ざかる大正私の銀座」)。

 しかし、ときの外相井上馨が欧米に向けたショーウインドーとして鳴り物入りで支援し、「東洋一の大ホテル」と言われた60室の客室を擁する帝国ホテルも、当初の経営は決して楽ではなかった。宿泊客が一人もいない日もあり、その壮麗な外観とは裏腹に当初は試行錯誤のスタートだったことを上掲「帝国ホテル百年の歩み」は社史としては異例なほど赤裸々に告白している。

 後に語り継がれる名支配人、ドイツ人のエミール・フライクを迎えて、帝国ホテルは名実ともに日本の表玄関となるが、明治も40年を迎えると都内各所に良質な設備とサービスを売り物にしたホテルが増え始めたこともあって、帝国ホテルは再び経営危機に直面していた。

支配人交代劇

 ここで後の帝国ホテルの歴史を大きく変える支配人がアメリカからやってくる。ニューヨークの古物商だった林愛作である。畑違いの彼がなぜ日本の表看板となるホテルの支配人として抜擢されたか、に関しては「帝国ホテル百年の歩み」も、ホテル関係の著作が多く戦前のホテル史にも通暁した山口由美の「帝国ホテル・ライト館の謎」(集英社)も指摘することはほぼ同じだ。すなわち、エミール・フライク等の例外を除けば放漫経営が多いお雇い外国人に懲りた首脳陣が日本人であることにこだわったものの、当時はまだ日本にホテルの専門家がおらず、アメリカでの東洋の古美術商と言う職務上、欧米の上流階級の嗜好を把握していることが主因となった、としている。

 このとき、経営の立て直しだけでなく、建築から20年を経て木骨石造、つまり木造建築の外側にレンガを張り巡らして石に似た色の漆喰を厚く塗った初代帝国ホテルの二代目を新築することも焦眉の急だった。

 林は当初乗り気でなかったが、「一切の権限を自分が持つこと」を条件に帝国ホテルの支配人として着任してからは精力的に改革を進めていった。その彼の運命の分かれ目となったのが、当初日本人を予定していた二代目帝国ホテルの設計をフランク・ロイド・ライトに託したことだった。芸術家肌のライトは少しでも気に食わないことがあると作業を中断した他、ホテル内の構造物はもちろん椅子から皿の一枚一枚に至るまで自らがデザインすることにこだわったために、工期が遅れるばかりか工費が当初予定の7倍近くにかさんだこともあってライトを招いた林と経営陣の間に軋轢が生じ、結果的に彼は支配人を辞任せざるを得なくなる。

 帝国ホテルは日本のみならず世界のホテル建築に確固とした金字塔を打ち立て、ホテル建築としても名作となったが、その陰にはさまざまなドラマがあった……ということで次回に続けよう。

 帝国ホテルに関する研究文献は多い中、拙稿のここまでの説明は建築史やホテル史としては駆け足の説明だが、洋酒文化の歴史的考察を標榜する文章としては不要なほど詳述してきたと読者の方々は思われているに違いない。このことがマウント・フジというカクテル誕生の秘密とどう関係してくるのかは、次回以降順次明らかにしていきたい。

石倉一雄
About 石倉一雄 128 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。