VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド(13)

大陸横断鉄道建設に従事する苦力
大陸横断鉄道建設に従事する苦力(当図はWikimedia Commonsより取得)

「ジャパニーズ・カクテル」の味は紹興酒がヒントになっていると違いないと気付いたものの、その結び付きが物理的・歴史的に可能なことだったのかを検証する必要がある。最も重要な問題は、紹興酒がJ.トーマスの時代にアメリカに渡っていたかどうかだ。

J.トーマスの時代のアメリカに紹興酒はあったか?

「『ジャパニーズ・カクテル』の味は紹興酒がヒントになっている」――そんな仮説を胸に秘めて東京に戻った筆者だったが、年末の横浜中華街で直感した仮説を証明するためにはまだいくつもの壁が立ちはだかっていた。これを一つずつ解決していくことで、4カ月にわたった「ジャパニーズ・カクテル」の稿は結末に向かう。

 この仮説を証明するためにはJ.トーマスが1860年の段階で紹興酒の存在ばかりか味も知っていなければならず、その前提として中国文化が地球の裏側にあるアメリカまで到達していなければならず、彼と中国文化の接点があったことが裏付けられなければならない。

 果たして、欧米列強による植民地化で困窮の極みに会った当時の中国からアメリカに人が渡ることが可能だったのだろうか? まだ欧米でも観光旅行という概念はおろか、一般の人が利用できる交通網の整備も行き届いていなかった。ロンドン万博(1851年)ではイギリス各地から訪れる庶民が数を頼みに暴動を起こすのではないかと真剣に危惧され、彼らが手に弁当を持ち、入場料を払っておとなしく見学する姿を見たロンドンの紳士が感動して握手を求める時代だった。イギリスという島国の国内でさえ、中心と周辺はかけ離れていたのである。もちろん、上海とアメリカどころか、太平洋を横断する日米間の定期航路もない。戦火とはまだ無縁だった幕末の日本でさえ、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」(1822年完結)が庶民憧れの旅行レポートとして読まれていた、徒歩旅行の時代である。

 まず解決したいのは、果たしてJ.トーマスは紹興酒を知っていたのだろうかという問題だ。

 J.トーマスと彼の時代が残した資料に「ジャパニーズ・カクテル」への言及がない以上、ここからは歴史的事実、可能性と可能性を重ね合わせて、突き詰めていくしかない。ここでポイントになるのが、中国人――華僑の動向だった。

 19世紀、鯨油の需要増大に伴ってアメリカの船が出没し始めたばかりの太平洋を、どうやって中国の酒や中国人が渡ることができたのか?――この疑問こそ、筆者が中華街のさびれた店で「『ジャパニーズ・カクテル』≒紹興酒をイメージ?」と思いついた後、最大の壁だった。

 サンフランシスコのチャイナ・タウンのホームページ(http://www.sanfranciscochinatown.com/Tiger Business Development Inc. という会社が運営している)の記述によれば、「最初の中国移民――男性2名と女性1名――がアメリカのブリッグ(2本マスト横帆の帆船)『イーグル号』でサンフランシスコに到着した」(First Chinese immigrants – two men and one women – arrive in San Francisco on the American brig, Eagle)のが1848年ということだ。トミーを含めた幕府の使節団がアメリカに到達する12年前になる。さらに、太平洋に定期航路が開設されたのは1867年のパシフィック・メール・ラインのコロラド号が初めてであるにもかかわらず、その前から中国人がアメリカに来ていたことになる。

列強に蹂躙された中国とゴールドラッシュのアメリカ

大陸横断鉄道建設に従事する苦力
大陸横断鉄道建設に従事する苦力(当図はWikimedia Commonsより取得)

 この辺りの歴史的背景にも若干の説明が必要だろう。

 まず中国側の事情だ。19世紀半ばの中国の人々は、銀の価格が欧米と異なることに端を発した銀流出による銀価格高騰や相次ぐ敗戦による重税にあえぎ、さらには中国全土に及んだ太平天国の乱(1850)による治安の悪化におびえていた。そうした中で、清朝政府の禁を破って海外に密航する数が増えていった。

 状況を一気に悪くしたのは、列強の進出だ。アヘン戦争(1840~42)でそれまで恐れられていた“眠れる獅子”が“張子の虎”であったと西欧列強に看破され、さらにアロー号事件・アロー戦争(1856~60)の敗北で完璧に西欧側に主導権を握られてしまう。

 そのアロー戦争の結着として結ばれた北京条約(1860)では、それまで清朝が厳しく禁じていた自国民の海外渡航を、事後承諾で公認することとなった。押しつけられた条項ではあったが、それほどまでに海外への流出は増加してもいた。相次ぐ列強の干渉の中で、なす術もなく崩壊していく清朝に見切りをつけて、多くの中国人がほとんど着の身着のままでアメリカ行きの船に乗船していったのだ。

 次に、アメリカ側の事情に目を転じてみよう。米墨戦争(1846~48)でようやく西側の出口を見つけた合衆国だったが、手に入れた西部はまだ未開の地に過ぎなかった。

 これを一挙に変えたのが戦争終結の年(1848)にカリフォルニアの農場の川のほとりで見つかった砂金だった。ゴールドラッシュのニュースは瞬く間に国境を越えて世界に広がり、それは中国にも伝わった。この一獲千金の夢は、中国南方の客家(はっか)と呼ばれる、海外移住に抵抗感を持たない人々が近隣の東南アジアではなく、アメリカに向かう動機となった。金を掘る作業に語学や技術のスキルは必要ない。単純反復作業ができ、寡黙に低賃金で働く大量の人手(苦力/クーリー)を、アメリカ西海岸は求めていた。

中国南部からアメリカへ渡った人々

 さて、我々は戦前の外国旅行と言うと、映画「タイタニック」で見た豪華客船をイメージする。しかし、目が飛び出るような渡航費を、困窮から故郷を捨てようとする彼らが払えるはずもない。

 しかし、調べてみると、それでも渡航する方法はあったことがわかる。

 一般に戦前の客船には、紳士淑女が心地よく冷やされたシャンパンで始まるディナーを楽しむ豪華な一等船室、ちょっと立派な二等船室、実質本位の三等船室があったことは知られている。しかし、実はそれより安い“さらに下のランク”があったのだ。彼らは、業界用語でステアリッジ(steerage)と呼ばれる、船倉と隣り合わせた窓ひとつない、悪臭が立ち込める家畜小屋のような集団部屋で寝起きしながら、アメリカを目指した。

 ペリーが1853年6月米国海軍省にあてた書簡を引用しよう。日本が鎖国をしているうちに戦乱に明け暮れていた中国からは「すでに何万人もの中国人が一人当たり50ドルの渡航費を支払って(中略)毎年全財産を携えて、カリフォルニア行きの船に乗り込んで」いたのだ。つまり、鎖国中の日本を経由せずに中国からアメリカに向かうルートは、甚だ危険で環境も劣悪ではあったものの、定期航路開設以前に存在していたことになる。

 万延元年遣米使節の一人、玉虫左太夫は、秀逸なルポルタージュ「航米日録」を残している。そのサンフランシスコ風俗の項に、「(1860年に彼らが訪米した際には)支那人(中国人)も一万五千人ばかりいて」というくだりがある。その記述に初めて触れたときには、「庶民が海外旅行とは無縁な時代に、どうしてそれほど多くの華僑が日本のはるか先にあるアメリカにたどり着くことができたのか?」と首を傾げたものだった。しかし、ステアリッジとペリーの手紙から、この疑問に答えが見つかった。そして、彼らが船出した港は、中国の南方だった。

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。