吉崎和明氏と日本リカー(1)

国内のワイン・インポーターが次々にリーファー輸送を採用していく中、自社が遅れをとってはと業を煮やしている男がいた。彼はある発見の機会を作ってくれたし、素晴らしいヒット・メーカーでもあった。

やらないなら辞めます

 日本リカーが“ワインのリーファー輸送”に早い時点で参入した経緯について触れておきたい。

 日本リカーには吉崎和明氏という営業マンがいた。「六人会」世話役の安井康一(現リカーショップ愛社長)によれば、氏が日本リカーから新玉川屋酒店へ転出するのと入れ替わりに、他社から日本リカーへ入社した人物とのことであった。安井氏は「ヤツは一見すると昼行灯で茫洋とした男だが、いい男だからきっとアンタの役に立つと思うよ!」と言って、吉崎氏を紹介してくれた。

 かなりの長身の山男である。豪放磊落な人物で、仕事で面白くないことがあると、休日に家族をほったらかしたまま、単身谷川岳でザイルにぶら下がって昼寝をしてくる。

 その吉崎氏が我が店に出入りしている間に、日軽商事、T山岡&サンズ、中島董商店、富士醗酵がリーファー輸送に陸続と踏み切っていった。その様子を目の当たりにして業を煮やした吉崎氏は、リーファー輸送に参入してもらえないなら退社も辞さずと、辞表を懐に上司の田中孝専務に談判したと聞く。部下思いの田中氏は辞表を差し戻し「話を聞こう」ということになったらしい。

 結果、私は日本リカー本社に呼ばれ、幹部社員を前にリーファー輸送発案の経緯と現状の報告をした。

 説明を終わって「どうします?」と、田中氏と日本リカーの親会社兼松江商(現兼松)から出向していた遠藤伸雄氏に問いかけると、「どうしますなんて言う問題じゃないでしょ。いつからやるかでしょう?」という風向きだった。

 遅れて入室してきた湯沢宏行社長は、「どうした? 決まった? フーン?」。そんな風に話が決まった。

日本向けのウイスキーへの疑問

 この訪問にはオマケがついた。同じく兼松江商子会社のブラック&ホワイト社とカティサーク・ジャパン社の若き両社長も同席していた。お二人は「オレたちにはおいしい話ないの?」と不服顔をしていた。

 私は「あるよ! 抵抗されると思うけど」ととぼけて、「ECバージョンを出荷しろと要請してよ!」とお返事した。

 1970年代のいつ頃からであったかは判然としないが、EC加盟国間では酒類のビンの容量が統一されはじめた。その中で、ワインのビンは750mlが基準容量となり、それまで700mlを使用していたドイツ・ワインも750mlへの変更を開始していた。

 片や蒸留酒やリキュール類は700mlを基準容量となった。それまで日本へ輸入されていたスコッチ・ウイスキーは、750ml(英国を含む欧州用)と730ml(恐らくは米国用)が混在していた。しかし、次第に日本への輸出用は750mlに統一されていった。

 その頃は私が家業に従事し始めた時期で、まずウイスキーとブランデーの勉強に勤しんでいた。しかし熱心に飲み比べる中、日本で評判を獲得したウイスキーが、順次質を落としていく有様を呆然と受け止めていた時期でもある。

 感じていたのは私だけではない。国際基督教大学の欧米人教授や欧米人生徒のお客様の中には、帰郷土産にヨーロッパで売られているウイスキーをプレゼントしてくださる方もいた。酒屋の私にである。彼らは暗に、「日本に供給されている物はおかしいよ!」と教えてくださっていたのだ。

 1980年代に入ってからは、下の妹が日航の国際線CAになっていたお陰で、同一銘柄の日本用とEC用の比較が容易になった。そして1985年頃には、EC用は40度700ml規格への移行をほぼ完了させていた。日本用は43度750mlが基本であった。違いは一目瞭然だった。

スティルヴァン・スクリュー

 果たせるかな、日本リカーを訪ねた半年後、ブラック&ホワイトとカティサークは、40度700mlのECバージョンが入荷した。甘苦さのない、奇麗な香味のウイスキーであった。

 そしてこの2品とブラック&ホワイト社の上級品The Royal Household(ザ・ロイヤル・ハウスホールド)のスクリュー・キャップを見て驚いた。「カッコいいけど贅沢なキャップだなァ!」と思ったのである。

 現在、新たなワイン栓として脚光を浴びているスティルヴァン・スクリューを意識に留めた最初だった。意識に留めたので他の酒類を見渡してみると、フランス産のオー・ド・ヴィーやリキュールなどには、既に使用されているものも多かった。

 また従前は、敷き布を汚すトラブルが多かったスコッチ・ウイスキーのギフト・セットであったが、この新しいスクリュー・キャップを使用したものにはトラブルはなかった。

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About 大久保順朗 82 Articles
酒類品質管理アドバイザー おおくぼ・よりあき 1949年生まれ。22歳で家業の菊屋大久保酒店(東京都小金井市)を継ぎ、ワインに特化した経営に舵を切る。「酒販ニュース」(醸造産業新聞社)に寄稿した「酒屋生かさぬように殺さぬように」で注目を浴びる。また、ワインの品質劣化の多くが物流段階で発生していることに気付き、その改善の第一歩として同紙上でワインのリーファー輸送の提案を行った。その後も、輸送、保管、テイスティングなどについても革新的な提案を続けている。