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苦い会議と新鮮で甘いプラム

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後から考えると、なぜそこまで正直に言ってしまったのか自分でも不思議なのだが、セルビアで調子のいいことを言って日本に帰ってきてから頭を抱えるような事態になっては、何のために14時間もかけて東欧に来たのかがわからなくなってしまう。場の空気に負けて先方の耳聞こえがいい話だけをして帰国後に知らんぷりを決め込む詐欺みたいな真似だけはするまい、と筆者も半ば意固地になっていた。

セルビアに行くとチキンカレーがこうなる。

セルビアに行くとチキンカレーがこうなる。

 筆者は今のご時世には合わないヘビースモーカーで、酒が入ると1日でハイライトが2箱カラになることも珍しくない。ピリピリした緊張感のなかで続く会話を中断して外に煙草を吸いに行く回数も増えてくる。フレンチのディナーではレストランの外に喫煙所があるのが普通だし、最近では外資系のホテルのバーも喫煙はエレベーターで降りて、という場合もままあるから慣れてしまい、筆者としてはさして苦ではない。話が佳境に入り、煙草と携帯灰皿を持って社長室を出ること二度。三度目に戻って来ると、筆者の席の前に灰皿が置かれていた。「中で吸っていただいて構いません」先ほどの険しい表情から打って変ったショーベルさんの柔和な笑顔と言葉を聞くまでもなく、机の上の灰皿の意味はわかる。

 わかるのだが清潔な工場内で好意に甘えてハイライトの煙を吐く気にもならない。クリンネスとかサニタリーの観点で行けば今までに取材したことのあるメーカーで汚れていると思ったところは国内外を問わず1カ所もなかったが、ハンガリーとセルビアのフルーツブランデー工場の“一点の曇りもないほど磨き上げられた”感に、ある意味恐れをなしていた筆者が四度目に外から戻ってきたとき、社長は秘書を呼んで何事かを命じた。やがてやってきたセルビア美人が社長の前に灰皿を置くと、彼は煙草も持って来させて火を付けた。

「スリヴォヴィツェ」のプラム

筆者が頼んだペンネにはさりげなく箸が添えられていた。

筆者が頼んだペンネにはさりげなく箸が添えられていた。

 筆者はその昼のカフェのことを思い出していた。東方の国からはるばる訪れた客人への心遣いとして、注文したペンネにはさりげなく箸が添えられていたのだ。その一件といい、セルビア人の客への気の使い方は一通りではない。

 煙草の一件で穏やかになった話し合いは、翌日再開された話し合いと併せて「日本でプロモント社のラキアを輸入したい会社が出てきた場合、彼らに紹介することと、筆者がライターとしての範囲を超えない程度に輸入業者を探してみるということでどうにか落着したのだが、さすがに疲労困憊して1日目の会議は終わった。

 がっくり疲れて出口への階段を降りた筆者の視界に信じられないものが飛び込んできた。20年近く前に講談社「世界の名酒事典」で「スリヴォヴィツェ」のラベルで見て以来、一度は実物をこの目で見てみたいと懇願してきたプラムが1かご、玄関前に置いてあったのだ。もうプラムは収穫の季節も蒸溜も終わり、手に入らないと聞いていたから筆者が思わず声を挙げたのも無理はない。

念願かなって初めて目にした東欧のプラム。東欧系フルーツブランデーに使われる果実の代表格だ。

念願かなって初めて目にした東欧のプラム。東欧系フルーツブランデーに使われる果実の代表格だ。

 読者のなかには「プラムくらい、日本のスーパーや八百屋でも売っているのでは?」と思われる方もいるに違いない。これにはちゃんと理由がある。この連載の第2回で少しだけ触れたが、日本の梅酒は海外では「プラム・ワイン」と呼ばれる。実際には焼酎というスピリッツに梅を浸漬して造るのだからワインではなくリキュールなのだが、話の本題はそこではない。

 日本でプラムを知っている読者も、果物屋に並んでいるプラムを青梅と同一視することはないだろう。東欧フルーツブランデーの東の横綱であるパーリンカで主要となる果物が杏であるのと同様、西の横綱であるチェコの「スリヴォヴィツェ」はプラムが主原料であることは20年前の世界の名酒事典にも記載されている。そのプラムとは、実のところどのようなプラムであるのか。筆者としては「巨大な黒ブドウ」のように描かれているフルーツブランデーの主原料となるプラムを、どうしても現地に行って自分の目と舌で確かめたかったのだ。

プラムの果肉は日本のブドウより黄色味が強い。

プラムの果肉は日本のブドウより黄色味が強い。

 冷蔵庫から出してきたと思しきプラムは冷えて汗をかいており、ブドウのように新鮮さの証であるブルーム(果粉)を白い粉のようにまとっている。果皮の厚さと硬さは巨峰などの大粒のブドウに近いが、実を割ってみると褐色の瑞々しい果肉が現れた。口にすると強い甘味とブドウより強い桃のような繊維質を感じる。プラムのブランデーには朝の牧場のような独特の香りがあるのだが、冷えているせいもあるのか生果では判別できない。わざわざ手配してくれた社長に礼を言い、この日の視察は終了した。

「イェレン」と「ヴィニヤック」

 コテージに戻った後、レストランで鹿のラベルのセルビアビール「Jelen」(イェレン)を試してみた。後味に少し雑味があるというか、喉に引っ掛かる感じで、どうもビールに関してはハンガリーに軍配が上がりそうだ。ついでに例の時代がかったセルビア語会話集に同志的敬意を表して、同書に記載されていた“ユーゴ風ウイスキー”「ヴィニヤック」をメニューで見つけて頼んでみる。上級とスタンダードがあるようで、どちらもまずいわけではないのだが、もっさりした感じと甘さが舌に来る。ウイスキーと言うより、現行のスタルカに味の骨格は近い。

時代物のセルビア語会話集の飲食の項に出ていた「ユーゴ風ウイスキー」ヴィニャック。味はロシアのスタルカに近い。

時代物のセルビア語会話集の飲食の項に出ていた「ユーゴ風ウイスキー」ヴィニャック。味はロシアのスタルカに近い。

執筆者

石倉一雄
石倉一雄
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。