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カリンの香りに満ちる果樹園

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日本ではセルビアというと、ストイコビッチというサッカーの監督以外にはほとんど知られていない。筆者にとっても初めて訪ねる土地である。

ごく希にルーターが機能しない地域が……

 日本を出る1週間前にちょっと面白い話があった。筆者が今回、海外でスマホを使うときに備えて契約したWi-Fiルーターの会社から電話が掛かってきた。

 流暢に話す話に面白い物は滅多になく、言いづらそうに重い口を開いて出る話は興味深いものがあるという。数日前にパソコンから筆者が申し込んだルーターの指向地がハンガリーとセルビアであることを確認した担当者が、奥歯に物が挟まったような口調で話し始めた。

 彼によれば、「弊社は世界中をカバーしているのが売り」であり、その言葉に嘘はない。ただし、どうしても現地の状況によって通じない国がごく希(「ごく希」と彼はたしか3回強調したと思う)に現地の電波事情で通じにくい国があるという。

「ハンガリーは弊社が契約しているプロバイダーで十分対応が可能ですし、お客様からもつながらなかったという声はないんですが……」

――セルビアが、その「ごく希」に入るというわけですね?

「あ、いや、セルビアに行かれた方のなかでも全然問題なかったと言っておられる方もいらっしゃるのですが、そうでなかったというお客様も正直、おられまして、その辺を御承知いただければと……」

 この手のネガティブな告知はポスターの片隅に小さく書いて「見ない方が悪い」で済まされるのが昨今のご時世なので、誠実というか正直な応対に好感を持った。「いや、構いません。通じなければ通じないで原稿……あ、いや、話のタネになりますので……」。

 連日のように微に入り細を穿って、これから筆者が目指すハンガリー/セルビア国境の難民レポートをしてくれている日本のテレビと併せて、「エライところに行くことになったもんだ」と渡航前に感じたことを思い出す。

 しかし、実際にセルビアに来てみるとルーター業者が言うのも無理はないことを実感した。とにかく平坦な台地がどーんと広がっているのだ。140kmで疾走するアウディが行く先には国境越えのときと同様に360度の地平線が続く。とにかく広大な畑、畑、畑が1時間近く続くのだ。間に垣間見える民家も1階建てがほとんどで、小さな集落をあっというまに過ぎるとまた延々と地平線が続く。日本だと十勝平野で電波が届くかどうかわからないが、いくら起伏がなくて電波が届きやすいとは言え、これだけ広大な土地が広がっていたらアンテナを立てるのも大変だし、電波も通じないだろう。

夢の中のような果樹園

出荷を待つリンゴの山。

出荷を待つリンゴの山。

 たどりついた果樹園は収穫したばかりのリンゴと、最近東欧圏のフルーツブランデーで人気のカリンを入れた、人の背丈ほどもある大きな木箱が並んでいる。ハンガリーではディスティラリーに隣接した果樹園も、近年にない猛暑ですべて収穫を終えた後だったから、セルビアもぎりぎりで間に合ったようだ。筆者が出国前に何度も重ねてお願いしていた「フルーツブランデーに使う果物がなっている果樹園」に車が乗り入れた。

地平線の先までカリンの樹林が続く。

地平線の先までカリンの樹林が続く。

 第一印象は「夢の中」だった。そもそも筆者は果樹園という場所に行ったことがなかったし、当然見たこともない。それが子供が書いた絵のようにぽんぽんぽんと黄色い実がなっている木が一直線に遙か向こうの方まで何列も並んでいるのだ。あまりに縁のない情景なのでついたとえが卑近になってしまうのだが、アニメなどで夢のような状況の時に目に星をいっぱい輝かせた少女漫画のヒロインが楽しげに踊り回る空間に迷い込んだような錯覚を感じた。カリンのすがすがしい香りの中にいると、筆者も目に星は浮かべないまでも「ここは夢の中なんだろうか」と思えてくる。

清涼な香りと比してカリンの食感は「硬い発泡スチロール」に近く食用には適さない。

清涼な香りと比してカリンの食感は「硬い発泡スチロール」に近く食用には適さない。

 木になっているカリンを実際に1個もいでみた。Webなどを調べてみると、カリンの実は固くて渋いと書いてあったが、噛んで噛めないことはない。ただ、口の中に入れると発泡スチロールやスポンジを噛んでいるような食感で清々しい香りとのギャップは結構大きい。日本でも焼酎に漬け込んで「カリン酒」を造ったり砂糖と煮込んでジャムにする方法はあるようだが、少なくともフルーツブランデー用に東欧で生産されているカリンは生食しておいしいものではない。

「生食できない果物」で思い出したので少々脱線すると、日本人が好むアールグレー紅茶でよく聞く「ベルガモット」の生果も「食用には向かない」と言われているが、あれも苦みと酸味が強いだけで、食べて毒なわけではない。我々になじみの深いかんきつ類で言えば「ゆず」のような扱いだと聞いた。

自家蒸留が文化として浸透している

 こちらの果樹園ではプロモント社に果物を売るだけでなく自家蒸溜もしているという。今回の視察で見かけたハンガリーやセルビアの業者が使っているものに比べるとさらに小型の蒸溜器だが、昔はこれよりさらに小さな蒸溜器を家庭で持っている場合が多かったという。

 ハンガリーで最初に行ったツィーメレシュ蒸溜所でも「委託蒸溜」を待つポリタンクが並べてあった。ここには庭で採った果物を周辺の人々が持ち込み、それを蒸留所では各家ごとにタンクに入れてアルコール発酵させた後、蒸溜器に入れて出来上がったパーリンカをペットボトルなどに詰めて戻すという。このように古くから自家蒸溜の文化がある中欧~東欧圏ではそういった歴史的経緯もあって、家庭用の蒸溜は広く認められており、ハンガリーやセルビアもその例に漏れない。

 パーリンカやラキアの業者がことさらにガスクロマトグラフィーを始めとする「近代的な設備や最新機器」をアピールするのは、自家蒸溜との差別化を図る意味があるのかもしれない。

樽の上に透明なクリオネ型のウォーターフィルターが見える。

樽の上に透明なクリオネ型のウォーターフィルターが見える。

 説明が遅れたが、ハンガリーでも見掛けた蒸溜用のポリタンクの上についている奇妙なサイフォンはウォーターフィルターだ。日本では見たことがないので説明しておくと、果物をアルコール発酵させると二酸化炭素が発生するから、タンクを密閉しておくと内気圧が高まって爆発してしまう。当然、ここにガス抜きが必要になってくるのだが、単純にパイプをタンクに差し込んだり蓋をせずに開放しておくと埃や雨水、さらには果物の香りを嗅ぎつけてきた子蠅がタンクに入ってしまう。

 これを避けるために10~15mlの水を中に仕込んだこの「サイフォン」が登場する。ホコリや子虫はサイフォン内の水が浸入を防いでくれる一方で、二酸化炭素はぷくぷくと泡を上げてここから抜けていく仕組みになっている。

執筆者

石倉一雄
石倉一雄
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。