トランス脂肪酸の表示に潜む問題

このたび消費者庁でトランス脂肪酸の表示についての検討が始まったようです。これは、トランス脂肪酸の表示について検討するように福島瑞穂消費者担当大臣から指示があったためであり、福島大臣が指示した理由は消費者からの要望に応え、今までとは違う、目に見える成果を出したいためであるようです。昨年トランス脂肪酸のリスク評価と各国のリスク管理について説明をしましたが、今回はその後の状況についてまとめました。

 リスク評価については特に新しい知見があったわけではないので大きな変化はなく、主にリスク管理の進行状況を概観してみます。

 カナダは2009年2月に食品中トランス脂肪含量についての調査結果を発表し、企業の協力により順調に削減が進んでいることを示しました。

 米国ではニューヨーク市でのレストランにおけるトランス脂肪の使用禁止が08年7月1日から完全実施となっています。一食当たりに含まれる人工トランス脂肪酸の量は0.5g未満でなければならないという規制です。ニューヨーク市に続いてカリフォルニア州などで同様の規制が導入されています。カナダでもブリティッシュコロンビア州など地方レベルでトランス脂肪規制に乗り出すところもあります。

 アイルランド食品基準庁FSAIでは09年4月、ファストフードレストランで提供されている食品のトランス脂肪酸含有量を調査し、多くの食品で総脂肪量の2%以下で問題はなかったと発表しています。問題があったのは飽和脂肪酸含量の方でした。英国でも同様にトランス脂肪の摂取量が健康上問題はないレベルであるのに対して、飽和脂肪の摂りすぎは重大な問題であるとして、09年2月には飽和脂肪に的を絞ったキャンペーンを行っています。

 オーストラリアとニュージーランドでは09年10月23日付で、加工食品からのトランス脂肪の摂取量は07年以降25―40%の削減に成功したと報告しています。オーストラリア・ニュージーランドではトランス脂肪の表示義務化や最大量の規制などは行わず、食品業者による自主的対応が功を奏した形になっています。その結果ほとんどの人たちでトランス脂肪の総摂取量は総エネルギー摂取量の0.5―0.6%と、WHOの設定した目安である1%より充分低くなっています。一部に高摂取集団がいますが、その主な摂取源はミルクや獣脂などの天然由来のものであり、企業の対策や法的規制ではなく個人の食生活改善によってしか解決が期待できないものです。一方飽和脂肪の摂りすぎについては依然として解決されておらず、今後の対策は飽和脂肪摂取量の削減に集中することになります。

 韓国は09年2月にお菓子類のトランス脂肪酸含量調査結果を発表していますが、前年度に比べて着実に減少していたようです。もともとそれほどトランス脂肪含量が多くはなかったのですが、「ゼロ」と表示できる製品の割合が増えたようです。香港や韓国も加工食品にトランス脂肪酸の表示義務はありますが、トランス脂肪だけを表示しているわけではなくて、総エネルギー、蛋白質、炭水化物、総脂肪、飽和脂肪、ナトリウム、糖なども表示義務があります。

 研究者向けにはJournal of AOAC International 2009, 92(5): 1249-1326が分析法を始め特集を発行していますので参考にしてください。先進国では概ね摂取量は減っており、問題になるとすれば途上国、それもバターや獣脂を使って調理する伝統的食品のようです。

 以上のように、表示義務の有無や最大含量に関する法的規制の有無にかかわらず、先進国においてはトランス脂肪の削減が進んでおり、その結果リスクは減少してきています。実際に心血管系疾患の減少という当初の目的が達成されるかどうかは今後の調査を待たなければ分かりませんが、現時点でできることはほぼ実行に移されていると考えられます。むしろ対策すべきはなかなか摂取量が減らない飽和脂肪という状況です。日本ではもともとトランス脂肪摂取量が問題になるような量ではなく、飽和脂肪についても西洋諸国に比べれば摂取量は少ないのでリスクは諸外国より小さいと言ってよいでしょう。

 ところで、もし日本でトランス脂肪の表示について検討するとすれば、大きな問題が一つあります。加工食品へのトランス脂肪の表示義務があるカナダや米国はもちろんのこと、条件により表示する必要があるヨーロッパやオーストラリア・ニュージーランドでは、トランス脂肪含量を表示する場合にはそれのみが表示されているわけではなく、食品の栄養成分表示の中で総脂肪や飽和脂肪含量と一緒に表示される、ということです。

 トランス脂肪は脂肪の一種であり、トランス脂肪を削減した結果飽和脂肪や総脂肪が増えたというのでは意味がありません。日本の場合一般的な加工食品への栄養成分表示の義務がありません。本来トランス脂肪を含め、栄養成分の多寡を論じる場合には全体に占める割合、つまりバランスが大切になります。ですからまず基本的な栄養情報があって、その上で特定の成分が多いとか少ないとかいう話になるのですが、日本ではその基本的な情報提供をする必要性をすっとばしていきなりトランス脂肪の表示という話が持ち上がっているわけです。

 技術士からの提言で藤田哲さんがおっしゃっているように「日本の食品表示制度はOECD加盟国はもとより、BRICsを含めて世界で最も貧弱である」のを放置したままいきなりトランス脂肪酸含量だけを表示したところで意味のある情報提供にはならないでしょう。そしてこの世界標準の食品表示を制度化するとすれば、日本人の食生活の最大の弱点であるナトリウム含量の問題がクローズアップされるのは避けられません。日本人にとって食事由来の最大のリスク要因はトランス脂肪などではなく、ナトリウムでしょうから。

 食事からのナトリウム摂取量の削減対策については現在英国が最先端を走っているように見えますが、飽和脂肪とともにナトリウム摂取量を減らすことが多くの国で公衆衛生上の次の課題となっています。

 消費者のため、という枕詞が消費者の「健康の」ためであるならば、リスクの大きい項目について対策するのが先決でしょう。消費者が間違った情報に踊らされている状態を放置したまま「消費者の機嫌を取る」のが消費者庁の役割だとは思いません。消費者にはまず何よりも適切な情報の提供こそが保証されるべきでしょう。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

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About 畝山智香子 30 Articles
国立医薬品食品衛生研究所安全情報部第三室長 うねやま・ちかこ 宮城県生まれ。東北大学大学院薬学研究科博士課程前期二年修了。薬学博士。専門は薬理学、生化学。「食品安全情報blog」で食品の安全や健康などに関してさまざまな情報を発信している。著書に「ほんとうの『食の安全』を考える―ゼロリスクという幻想」(化学同人)。